細谷雄一×東野篤子×小泉 悠「ウクライナ戦争が変えた日本の言論地図」

細谷雄一(慶應義塾大学教授)×東野篤子(筑波大学教授)×小泉 悠(東京大学先端科学技術研究センター准教授)

英の「間接アプローチ」に学ぶ

細谷 小泉さんは国際政治業界で最もSNSのディフェンス能力が高い人で、東野さんは最もオフェンス能力が高い人だと思うんです。


小泉 私の場合はキャラとしか言いようがないのですが......。有害な意見に遭遇したとき、反論しにいく人と、徹底的に「無」にしていく人がいますが、僕は後者で、ひたすら無視するか、あるいは茶化すタイプ。軍事用語では、これはイギリスの生み出した「間接アプローチ(Indirect approach strategy)」です。敵の野戦軍を殲滅しに行ったりせず、弱点を見つけて突いていく。

 あとは、殴られていることに本人が気づかないことも(笑)。戦争と違い、SNSの言論攻撃では物理的な損害は発生しないから、殴られたかどうかは主観的な問題です。これもイギリス的と言えるかもしれません。ウクライナ戦争開戦の半年前、クリミアの沖合を航行中のイギリスの駆逐艦がロシア軍に威嚇されたとき、イギリス国防省はまったく意に介さなかった。そういう「戦略的鈍感力」は、SNSでも役に立ちます。


細谷 小泉さんの「間接アプローチ」は、「戦わずして勝つのが最善だ」とする孫子の考え方に近いですね。SNSは今や認知領域の戦場です。ロシアが勝利するうえで、小泉さんや東野さんを邪魔だと考える人たちが攻撃してくる。個人がエンパワーされる一方、個人が否応なく巻き込まれるサイバー空間の戦場で、東野さんはどうオフェンス戦略を立てていますか。


東野 私はもともとSNSでの攻撃をさほど深刻に捉えていなかったのですが、開戦後、想像を超える異次元の言論空間が実際に存在していたことに驚きました。「ウクライナはネオナチ国家」というロシアの典型的なプロパガンダを心底信じて、ロシアがこの国家を倒すことが世界のためになると思っている人が一定の影響力を持っていたのです。

 この状況を放置したままでは私自身の言論活動にも支障をきたすし、見ている人にも悪影響を及ぼす、と危機感を抱きました。そこで、「ウクライナはこんなにヤバい国だから、倒してもいいんだ」と平気で言う人に対しては、「どんなに問題がある国でも武力侵攻は許されない」と反論し続けることにしました。

 とはいえ、私に反論された人が意見を変えることは100%ありません。それどころか、恨みを抱いて余計に粘着してくる。それでも私の反論を見て「こう言語化すればいいんだ」「やっぱりこれが基本線なのだな」と思う人や、いかに歪んだ言説が広がっているかに気づく人もいると思うので、その輪が少しでも広がるように、と続けています。


細谷 そこで私が思い出すのは、2014年のクリミア侵攻時の反省です。侵攻の翌年、日本の国会周辺では安全保障法制への反対運動が盛んに展開されていました。私は「本当に平和を求めるのなら、なぜロシアのクリミア侵攻を批判しないのか」とよく言っていたのですが、まったく反応がなく、外国で戦争が起きていることへの日本人の冷淡さを感じました。当時、日本国内では、ロシアのクリミア強制併合への批判は抑制的でした。

 この認識が、22年2月のロシアのウクライナ侵略以降も続く可能性は十分あった。しかし、小泉さんや東野さんの積極的発信のおかげで、日本では世論が一変し、今回はロシアの侵略への批判的論調がメインストリームになった。世論調査でも8割以上が対露経済制裁に賛成です。理性的で合理的な議論が世論の多数を占めるようになったことは心強いですが、それゆえ抵抗や反発が激化しているのも事実ですね。


小泉 今回の戦争が始まるまで私は、感情的な論争に巻き込まれることがほとんどありませんでした。そもそも日本人にとってロシアは遠い国。私が専門とするロシア軍事の話など火星の話と変わらないのでしょう。以前は、話をしても「そうですか、勉強になりました」と言われるだけ。私自身、人と真正面から論争して論破したいタイプではないので、その距離感はちょうどよかったのですが、そんな自分の研究対象が、大爆発を起こしてしまったから大変です。

 現状の解説と解決策の提示を求められるようになったかと思うと、次第に「日本はどこまでウクライナを援助すべきか」「ウクライナはネオナチなのではないか」などと、価値判断を含む議論に発展し、誹謗中傷が飛んでくるようになりました。

 それまでも、北方領土問題について「安倍政権の対露政策は成功していない」などと発言して批判を受けたことはありましたが、節度がありました。ところが今回は、「この戦争は裏からアメリカが操っている」といった陰謀論を真剣に信じる人からの強烈な罵詈雑言が多い。

 とはいえ私の中には、直接人を傷つける言論以外は、多少めちゃくちゃでも、いろんな人がいろんなことを言える世の中を保っておきたいという大前提があります。公的言説以外は口にできない今のロシアのような国になるよりは、多少弾が飛んでくるにしても、誰もが好きなことを言える社会のほうがいい。そこだけですね、私が持ちたい原理原則は。

 もちろん罵詈雑言を浴びるのは不愉快ですよ。でも私の場合、数時間で大抵のことは忘れるし、スルーできるので、皆さんと同じ権利を行使して、言いたいことを言わせてもらうというスタンスでいますね。

(続きは『中央公論』2024年4月号で)

構成:髙松夕佳 撮影(細谷氏・小泉氏):米田育広

中央公論 2024年4月号
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細谷雄一(慶應義塾大学教授)×東野篤子(筑波大学教授)×小泉 悠(東京大学先端科学技術研究センター准教授)
◆細谷雄一〔ほそやゆういち〕
1971年千葉県生まれ。英国バーミンガム大学大学院国際関係学修士号取得。慶應義塾大学大学院法学研究科博士課程修了。博士(法学)。著書に『戦後国際秩序とイギリス外交』(サントリー学芸賞)、『倫理的な戦争』(読売・吉野作造賞)など。近刊は編著『ウクライナ戦争とヨーロッパ』。

◆東野篤子〔ひがしのあつこ〕
1971年生まれ。慶應義塾大学大学院修士課程修了、英国バーミンガム大学政治・国際関係研究科博士課程修了(Ph.D.)。専門は欧州の国際政治。広島市立大学国際学部准教授などを経て現職。共著に『解体後のユーゴスラヴィア』『現代ヨーロッパの国際政治』『ウクライナ戦争とヨーロッパ』などがある。

◆小泉 悠〔こいずみゆう〕
1982年千葉県生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。同大学大学院政治学研究科修士課程修了。専門はロシア軍事研究。外務省専門分析員、国立国会図書館非常勤調査員などを経て現職。著書に『「帝国」ロシアの地政学』(サントリー学芸賞)、『ウクライナ戦争』『オホーツク核要塞』などがある。
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