韓国・李在明大統領がアメリカ、中国よりも先に日本を訪れた理由

(『中央公論』10月号より抜粋)
――発足前、日本では李政権を警戒する声もありましたが、韓国側は石破政権をどう見ていますか。
徐 政府周辺を取材すると、李政権にとって石破政権の日本は安全な存在で、攻撃をしかけてくるような相手ではないという認識です。尹政権の3年間で日韓関係がよくなったのは否定できない事実で、お互いの好感度もものすごく上がった。これは尹さんの置き土産、レガシーと言ってよいでしょう。李在明はそれをひっくり返すことはしません。徴用工問題での第三者弁済についても、そのまま進めるしかないと言っています。日本との間で、ことを荒立てたくないというのが基調にあります。
木村 冒頭でも言いましたが、李政権は外交で積極的な動きを見せません。日本側が何か問題を起こせば反応せざるをえないでしょうが。
今のようにみんなが普通に行き来できて、貿易が行われ、交流があれば、問題ないでしょう。外交関係は交差点の信号機のようなもので、事故を起こさない安全運転が一番です。
――8月15日は日韓双方とも大切な日ですが、石破首相は談話発表を見送り、李大統領は就任式に代わる「国民による任命式」を行いました。
木村 任命式と同じ日の演説なので、日韓関係の話は最低限になるだろうと予想していましたが、きれいにそのとおりになりました。それよりも、解放から80年の節目の年に、大韓民国の輝かしい経済発展と民主化の歴史を語り、そのためには日本や北朝鮮との関係も重要だ、という枠組みです。尹錫悦の戒厳令宣布後に成立した政権ですから、大事なのは「民主化」なんですよね。
日本側としても、1995年の村山談話に始まって10年に1回、必ず日韓関係を見直し、そのたびに揉めるという無駄を繰り返してきました。小泉談話(2005年)、安倍談話(15年)と続いた時期こそが、日韓関係が悪化した時期だったのです。
そういう意味では、今年の8月15日の展開は、何も起こさないのが模範解答だ、ということをあらためて示したのかもしれません。
――8月23〜24日には李大統領が訪日、日韓首脳会談が行われました。
徐 実務的な首脳会談だったと評価できます。尹錫悦が作った流れに李在明さんも便乗し、日韓関係の局面が「仕事型」に定着しました。一方で、韓国内の市民団体は日本政府の肩を持つ李政権の姿勢に反発しています。
木村 そもそも時間も限られていますから、具体的に内容のある話をするのは最初から無理がありました。それよりも韓国の大統領が、アメリカや中国よりも先に日本を訪れたこと自体に意味があると思います。
――南北関係はどうでしょうか。
徐 李政権は進歩派政権ですから、北朝鮮と対話するというスタンスです。6月には北向けの拡声器放送をやめたのですが、これは尹政権のときに韓国がビラを、北が汚物風船を飛ばし、その仕返しに韓国がやっていたものです。7月からは北向けのラジオやテレビ放送もやめました。つまりこの50年間続けてきた北朝鮮向けの情報工作を全てやめたわけです。その上で、盧武鉉政権時代に南北関係を担当していたベテラン政治家らが中心になって、南北対話の再開を試みています。
ただ金正恩(キムジョンウン)は2023年12月から「南北は敵対的な二つの国家であり、同族関係でもない」と言っていますから、これに乗ってくるかどうかはわからない。7月以降、金正恩の妹の金与正(キムヨジョン)が立て続けに韓国との対話を拒否する談話を出しています。これは韓国側もある程度織り込み済みで、北朝鮮を相手にできる限りの譲歩をしていく構図ができています。もちろん北朝鮮には、韓国がここまで譲れば応じる、という線はあるでしょう。米韓合同軍事演習の停止など、トランプ政権なら乗ってくるかもしれないですし。韓国内の保守派の世論がどこまで譲歩を受け入れるのかという、過去の進歩派政権が抱えてきたジレンマが再現される可能性が高いでしょう。李在明政権の体力がどこまでもつでしょうか。
木村 ベクトルの方向性と長さを考えることが重要です。李政権は北朝鮮に対話を求めていますが、どの程度までやる気があるのか、過去の進歩派政権と比べると疑わしい。文政権では北朝鮮との対話が外交の第一目標でしたが、李政権での優先順位はものすごく低いんですよね。あくまで国内政治が中心にあって、南北関係は従属的な変数で、カードの一つとして消費されていくと思います。
徐 李在明は北朝鮮の話になるとすぐ「平和こそ経済」、つまり平和と経済成長の好循環を強調します。ですがそれは国内向けの話であって、北朝鮮に対しては何も言っていないのと同じです。解放80年と同時に分断80年でもある8月15日の演説に注目しましたが、信頼の回復と対話の再開を呼びかける次元にとどまり、画期的な内容はなく肩透かしでした。
――韓国の防衛産業は世界の市場で存在感を高めています。
徐 この分野の貿易黒字は大きくて、関連企業の株価も高騰しています。もちろん武器輸出に反対する人たちも少数ながらいますが。
木村 進歩派も自主防衛を主張しますから、軍備拡張に反対ということはありません。ただ李在明は、尹錫悦のように韓国製の武器をどんどん売って、国際的な地位を高める、評価を上げるといった発想はないでしょう。おそらく尹政権の時期がグローバル化のピークだったと思います。
韓国もアメリカ同様、内向きになっています。ただ、アメリカは世界に迷惑をかけながら国際社会から出ていく。トランプのスローガンはMAGAですが、李在明は「もう一度真面目に働く韓国に戻ろう」でしょうか。
韓国の人々、特に若い世代はかつてのような夢を持つことはないでしょう。みんなで地道に働いて、地道に生きる韓国に戻っていく。その意味で李在明は時代に合っていると思います。彼が本来そういう人なのかどうかは別にして、今はそれを懸命に演じている。韓国も大きな転換点にあると思います。
聞き手・構成:伊東順子(ライター・翻訳業)
(『中央公論』10月号では、李政権が高支持率を維持する理由、韓国社会の分断の状況などについて詳しく論じている。)
1966年大阪府生まれ。京都大学法学部卒業。同大学大学院博士課程中退。博士(法学)。専門は比較政治学、朝鮮半島地域研究。現在、ソウル大学日本研究所客員研究員として韓国に滞在。著書に『韓国における「権威主義的」体制の成立』(サントリー学芸賞)、『日韓歴史認識問題とは何か』(読売・吉野作造賞)など。
◆徐台教〔ソ・テギョ〕
1978年群馬県生まれの在日コリアン3世。1999年からソウル在住。高麗大学東洋史学科卒業後、人権NGO代表や日本メディアの記者として活動。2015年、韓国に「永住帰国」すると同時に独立。ニュースレター「コリア・フォーカス」編集長。9月26日に初の単著『分断八〇年 韓国民主主義と南北統一の限界』を刊行予定。