西山美久 ウクライナ侵攻を支える現代ロシアの〝国教〟「大祖国戦争史観」とは何か【著者に聞く】
――プーチン体制のロシアで、「大祖国戦争」(独ソ戦のロシア側呼称)の勝利がいかに絶対化されていったか、その結果周辺国とどんな軋轢が生じているかを、膨大な資料をもとに活写します。なぜ、独ソ戦での戦勝がロシア愛国主義の中核になるのでしょうか。
多民族国家ロシアにとって、民族や宗教の垣根を越えて愛国心を盛り上げられる要素がそれ以外になかったからだと思います。前身であるソ連の国家イデオロギーだったマルクス・レーニン主義は古びてしまったし、ロシア正教では国内のイスラム教徒などの反発を買ってしまう。新たな国民統合の理念としてプーチン大統領が掲げたのが、独ソ戦でナチス・ドイツという敵と戦って勝利した歴史でした。
この戦争でのソ連の死者は2000万人以上と言われ、多くの国民が家族から犠牲者を出しているので、国民感情としても戦勝の意義を否定されたくない。こうした世論もあり、ソ連=ロシアが多大な犠牲を払って欧州をナチズムから「解放」し、世界を救ったという「大祖国戦争史観」がプーチン政権下で喧伝されていくことになります。
もちろん、そこで強調されるのは輝かしい愛国物語だけで、ソ連軍による東欧や満洲などでの戦争犯罪は語られません。戦後の共産主義体制下で長く抑圧されたバルト三国やポーランド、チェコなどにとって、ロシアを「解放者」と称揚するこの歴史観は受け入れがたいものでした。これらの国々は、ナチス・ドイツの占領を受けた後、ソ連によって再び占領されたという「二重占領史観」を打ち出します。
こうした欧州諸国の歴史観にロシアは激しく反発し、国連に「反ナチズム決議案」を提出して自らの歴史認識に異を唱える国々を批判するなど、国際社会でも盛んに「大祖国戦争史観」の正当化を図っていきます。本書は、現代ロシアで絶対的なアイデンティティと化したこの歴史観をめぐり、プーチン政権が国内外で行っているさまざまな取り組みの解明を目指したものです。
――歴史観ではありながら、戦中プロパガンダで喧伝された英雄の実在を疑った学者が公職を追われるなど、批判的検証は許されない国教的な存在です。
歴史学的検証の結果、国民が「大祖国戦争史観」の正当性に疑いを抱くと、愛国心を鼓舞するツールとして使えなくなりますので、政権としてはそうした動きは抑えたいのです。近年になって憲法や各種法律の改正が相次ぎ、公定の歴史認識への異論に対する罰則の新設や厳罰化が進んでいます。ロシア国内で歴史学者が公文書などを調べて、「大祖国戦争史観」と異なる新たな解釈を示すことは難しくなってきているのではないでしょうか。
――ナチズムという敵との闘争が「大祖国戦争史観」の核心ですが、その敵は今も勢力を保っているとロシアは主張します。ロシアを脅かす敵を常に必要とする国民統合は、陰謀論的世界観や侵略戦争の推進につながるのでは。
今回のウクライナ戦争と「大祖国戦争史観」は強く関係していると思います。戦争を始める際、プーチン大統領が突然「非ナチ化」と言い出したのに多くの人は当惑しましたが、彼の発言をさかのぼっていくと、ウクライナ現政権はナチスだ、なぜならロシア語話者を迫害しているからで、特定の民族を劣位に置くのはナチズム信奉の証拠だ、というロジックになっている。
「大祖国戦争史観」を絶対化した結果、ロシアの敵はナチスであってもらわなければ困る、そうでないと国民を戦争に協力させる理論武装ができない状況に陥ったとも言えます。だから国営テレビなどで、「ウクライナ軍の陣地からハーケンクロイツの旗やヒトラーの『我が闘争』が見つかった」のような報道を繰り返しているのだと思います。
――対日関係における歴史認識問題は。
実は2000年代、歴史問題での共闘を求める中国側に対しロシアは冷めた対応でした。しかしウクライナ戦争以降、中国の対日批判に乗る形での中露連携が進んでいます。歴史認識はロシアの対外政策と密接にリンクしており、日本としても注視が必要です。
(『中央公論』2026年2月号より)
1985年長崎県生まれ。東京大学先端科学技術研究センター特任助教。九州大学大学院比較社会文化学府博士後期課程単位修得退学。博士(比較社会文化)。専門は現代ロシア政治、歴史認識、ナショナリズム。北海道大学国際連携機構特任助教などを経て、2023年より現職。著書に『ロシアの愛国主義─プーチンが進める国民統合』がある。





