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どじょう宰相の言語力を診断する

東照二(立命館大学大学院教授)

 さて、これを聞いて自分のこととして関連づけることができる人は(鹿児島出身の人を除いて)ほとんどいないだろう。これでは、ただ単に、自分の趣向の話をしているにすぎない。「それがどーした」である。聞き手へつながっていく発展性が皆無なのだ。自分中心の話をするだけで、むしろ逆効果といえる。

 この物語、ストーリーを最大限利用するという手法は、野田の生い立ちや落選経験を語り、聞き手との心理的な距離感を縮めるだけでなく、具体的な政策課題に関する話題へとつなげ、発展させていく際にも、いかんなくその効力を発揮していく。具体的で、日常的で、感覚的な世界から、抽象的で、政策的、観念的な世界への、無理のないスムーズな移行、発展である。

その三 具体から抽象へ

 いかにも政治家が使いそうな、抽象的で、観念的で、新鮮味のない漢語的なことばの長々とした羅列ほど、魅力のないものはない。たとえば、前原の次のようなことばに、わくわくする昂揚感を持つ人はどれだけいるだろうか。大いに疑問だ。

「マニフェストに掲げながらいまだに実現していない、たとえば国家戦略機能の強化、国家戦略局の設置による戦略的な予算編成やエネルギー・環境政策の刷新、成長戦略の強化、内閣人事局の設置による官民・省庁の垣根を越えた優秀な人材の結集、このようなことを推進することによって、従来型の一律削減方式の予算編成など時計の針の逆戻りを許すことなく、思い切って日本の未来を切り開くような分野への〈選択と集中〉を行う」

 理念、政策を正面から思い切って語る、それこそが政治家の使命であると考える政治家は多い。特に、民主党の若手で、松下政経塾出身、知的で熱心な政治家にこの傾向は強いようだ。しかし、同じ松下政経塾出身でも、野田は少し違う。たとえば、中小企業の資金繰り支援のための経済政策について語る場面では、いきなり経済政策といった抽象的で観念的な話から始めたりはしない。まずは、ストーリーだ。それも新鮮さ、驚き、意外性、そして視覚化できるような小さな物語から始めるのである。それは、野田が落選中に参加したある勉強会での一コマである。野田は正直だ。どうもつまらなくてほとんど眠っていたそうである。ところが、「その眠っていた勉強会でスーッと耳に入ってくる、心に入ってくる話がございました。それは朝顔の話です」と続ける。そして、その会合で出た質問、そして自分の答えを紹介する。聞き手も思わず、自問自答してしまいそうな瞬間だ。「朝顔が早朝にかれんな花を咲かすには何が必要か、というお話でした。答えは、私は日の光だと思いました」。ここで聞き手は、思わず自分なりの答えを頭の中でめぐらす。すると次のことばだ。

「違うんです。朝顔が早朝にかれんな花を咲かすために、あえて一番必要なものは何か。その前の夜の闇と夜の冷たさだ、ということでした。私はびっくりしました。人生が変わりました。闇を知って初めて、ほのかな光がうれしいと思うんです。冷たさを知って、まさに暖かみが幸せだと感じるんです。今、夜の闇、夜の冷たさの中で、灯りと暖かさを求めている人がいっぱいいるんじゃないでしょうか。今こそそういう政治を実現しなければいけないと思います」

 聞き手と一体になりながら、朝顔のストーリーが進行していく。これは落選中の闇の中にいる野田自身の経験でもあるが、それだけにとどまらない。聞き手である議員たちの経験にもつながっていく。そしてそれは、弱者へ手を差し伸べていく政治を実現しようと、野田が議員たちに一方的に講義をするのではなく、聞き手である議員たちが自分のこととして野田と同じように、自発的に共感できるようなストーリーへとつながっている。この共感の土壌ができあがったところで、政策の話、資金繰り対策、経済政策など政治の話へと発展していく。この話の流れ、構図をみてみると、それはストーリーの力を利用した、具体から抽象への移行、発展ととらえることができる。つまり、血気盛んで若気の至りそのまま、政策論争をいきなりするのでは決してなく、感覚的、情緒的、視覚的なことばを通じて、共通経験を経てから、自然と無理なく当然の帰結として、政策の話へと発展していくことになる。

その四 自然さ、本物さ

 私たちは、作られた、できすぎた、うさんくさい演説と、そうでない本物の演説を直感的に見分ける能力を持っている。用意周到に準備された演説ではなく、話し手の内面からほとばしり出るようなホンネ、信頼できる演説かどうか、その基準の一つは、話し手が原稿を読み上げているか、あるいは、原稿なしで、聴衆たちに向かって顔をしっかり上げ、アイコンタクトをとりながら話しているかどうかだ。もちろん、原稿に頻繁に目をやりながらの演説が必ず偽物であるというわけでは決してない。しかしながら、聞き手の方をじっと見据えながら、聞き手に語りかける演説というのは、その人の本物さがそこに表れているようにみえてくる。

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