"非"立憲的な日本人 境家史郎

――憲法の死文化を止めるためにすべきこと
境家史郎
 戦後日本の政治で常に争点となってきた「憲法問題」。憲法改正の賛否をめぐって「保守」と「革新」が長らく対立してきたが、その成否を握る国民、日本人は、果たして憲法を、立憲主義をどれだけ理解しているのか? 境家史郎・東京大学教授がオンライン調査を実施し、分析・考察した。(『中央公論』2021年12月号より抜粋)
目次
  1. 「改憲論 対 護憲論」を超えて
  2. 憲法観を測定する
  3. 大量に存在する非立憲主義者

「改憲論 対 護憲論」を超えて

 憲法に関する意識について日本人を2種類に分けるとき、戦後長らく使われてきた基準は、もっぱら、改憲派か護憲派かというものであった。この分類は、ほぼイデオロギー上の右派と左派、あるいは戦後日本政治の用語で言うところの「保守」と「革新」の立場に対応する[1]。言うまでもなく、占領期にGHQの強い影響下で制定された「押しつけ憲法」の正統性と、その内容(特に第9条)をどう評価するかをめぐる対立である。

 しかし、今日の日本人の憲法観には、改憲に関する賛否という以前に、問われるべき根本的側面があるのではないか。それは、日本人が「どれだけ立憲主義的であるのか(立憲主義の考え方を理解し、信奉しているか)」という点である。立憲主義およびこれに立脚した近代憲法とは何かという点については、憲法学の教科書からオーソドックスと見られる説明を引いておく。

「近代立憲主義と呼ばれる思想は、国家の任務を個人の権利・自由の保障にあると考えるが、その任務を果たすために強大な権力を保持する国家自体からも権利と自由を守らねばならないとの立場をとり、このような目的に即して、国家機関の行動を厳格に制約しようとする。そして、このような考え方に立脚した憲法を、立憲的意味の憲法、あるいは近代的意味の憲法と呼ぶ。」(長谷部恭男『憲法 第7版』新世社、10~11頁)

 こうした立憲主義の思想は、「権力を法で拘束することによって、国民の権利・自由を擁護することを目的とする」という、「法の支配」の原理と密接に関連する(芦部信喜『憲法 第七版』岩波書店、13~14頁)。本稿では、こうした立憲主義の考え方を理解し、これに規範性を認める人を「立憲主義者」、そうでない人を「非立憲主義者」と呼ぶことにしよう。

 戦後日本では、実態として、立憲主義者は護憲派と、非立憲主義者は改憲派としばしば同視されてきた。そしてこの見方は、近年、野党第一党の立憲民主党が改憲に対する消極姿勢を明確にしたことによって、一層強まっているようである。

 しかし、「護憲/改憲」、「立憲主義/非立憲主義」という2つの分類軸は、原理的には同じものではない。立憲主義を信奉しながら改憲派であるということは、本来、当然にありうる。外国では珍しくない憲法の明文改正を、すべて非立憲的行為というのはもちろん無理である。

 逆に、非立憲主義者が、消極的な意味で(積極的に改憲する必要性は認めないという意味で)護憲派であることも十分ありうる。非立憲主義者が否定ないし軽視しているのは、現憲法典の記述内容ではなく、近代憲法の機能そのものである。そもそも憲法の存在意義を認めていない(あるいは理解していない)人が、その具体的内容を改善しようとの強い動機を持つのはむしろ不自然でさえある。

 要するに、護憲論と立憲主義、改憲論と非立憲主義はそれぞれ独立した考え方、あるいは立場である。したがって、有権者の憲法観を分析する上でも、これらを区別することが求められよう。

 そこで以下、本稿では、今日の日本人がどのくらい立憲主義的であるのか、また立憲主義者と非立憲主義者には、社会的属性や他の政治意識の面でどのような違いがあるのか、といった点を実証的に見ていきたい。こうした観点から一般有権者の意識を分析する試みは、これまでほとんどなかった。それは、改憲か護憲かという保革イデオロギー的観点が、従来の憲法論の視角を独占してきたからに他ならない。

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