"非"立憲的な日本人 境家史郎

――憲法の死文化を止めるためにすべきこと
境家史郎

憲法観を測定する

 本稿の分析は、2021年1月に筆者らが実施したオンライン調査の結果に基づく[2]。調査は楽天インサイトの登録モニターに対して行い、居住地(都道府県)、性別、年齢について、現実の人口比と等しくなるよう割り付けがなされた。回答者の総数は4000人である。

 本調査で焦点となる質問は、「あなたが考える憲法のあり方は、どちらのイメージが強いですか」というものである。憲法のあり方の「イメージ」にはA、Bの両極を用意した。回答者は、「A(B)に近い」「どちらかと言えばA(B)に近い」「どちらとも言えない」の選択肢から一つを選ぶことになる。A、Bの具体的文言は次の通りである。

A:憲法はあくまで国の理想の姿を示すものであるから、政府は、現実の必要に応じて、憲法の文言にとらわれず柔軟に政策決定すべきである。

B:憲法は国家権力を制限する具体的ルールであるから、政府は、現実の必要があるとしても、憲法の文言上許されない政策を採るべきではない。

 この質問文は、2018年初頭に安倍晋三首相と野党との間であった論争を手掛かりに作成したものである。同年1月、安倍首相が、憲法とは「国のかたち、理想の姿を語るもの」と発言したのに対し、立憲民主党代表・枝野幸男が「特異な認識」だと批判し、「憲法の定義は(中略)主権者が政治権力を制限するルール」だと反論した[3]。枝野の見解では、この2つの見方は背反的であり、後者の憲法観を欠いた安倍は、立憲主義を軽視していることになる。

 イメージA、Bは、この憲法観をめぐる対立を、より鮮明化した形で捉えようとしたものである。Aの見方によれば、政府は実際上、憲法に行動を制限されていない。これを選ぶ人は、「和を以て貴しと為し......」で知られる「十七条憲法」のように、憲法の役割をいわば為政者にとっての道徳的目標として捉えているのだと思われる。これは近代の立憲主義的な考え方ではない(十七条憲法はもちろん近代憲法ではない)。

 法の支配を重視する立憲主義者は、2つのイメージから選ぶとすれば、Bを採らなければならない。というより、憲法の役割をBのように考える(Aのように考えない)ことこそが立憲主義的であることの定義(の少なくとも一部)なのである。

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