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細谷雄一 「宰相安倍晋三論」――吉田ドクトリンに代わる新外交路線とは

細谷雄一(慶應義塾大学教授)
写真提供:photo AC
 高坂正堯の「宰相吉田茂論」(『中央公論』1964年2月号)は、それまで「保守反動の権化」とされていた吉田茂の評価を一変させた。安倍晋三元首相の評価はかつての吉田茂以上に分裂していると見る細谷雄一慶應義塾大学教授が、安倍元首相の政治家としての様々な顔を論ずる。
(『中央公論』2022年9月号より抜粋)

戦後日本外交の基礎を作ったのが吉田茂だとすれば、冷戦後の日本の外交路線をアップデートしたのが安倍晋三元首相なのである。

冷戦後を作った政治家

 ちょうど今から60年前の1962年9月、アメリカのハーバード大学留学から帰国した政治学者の高坂正堯(こうさかまさたか)京都大学助教授は、東京の国際文化会館に滞在していた。

 国際文化会館調査課長であった蝋山(ろうやま)道雄は、『中央公論』編集次長の粕谷一希(かすやかずき)に連絡して、この若き政治学者と面会することを推奨した。早速、粕谷は、自らと同世代の高坂に連絡を取り、面会の約束を取り付けた。高坂と会い、意気投合した粕谷は原稿執筆を依頼し、その後その原稿は「現実主義者の平和論」として1963年1月号の巻頭論文となり、高坂の論壇デビュー作となった。

 この論文が、若き俊英、高坂の名を広く知らしめる結果となり、粕谷はさらに高坂に「吉田茂をやりませんか」と次の論文執筆へと誘った。その後、高坂は大磯の吉田茂邸を訪れ、政界を引退していた吉田本人とも会って、インタビューを行っている。国際文化会館専務理事の松本重治の仲介によるものであった。

 この面会を経て書き上げた高坂の論考、「宰相吉田茂論」(『中央公論』1964年2月号)は、それまでの吉田の評価を一変させた。左派系知識人が支配していた日本の学界で、「保守反動」の権化であり、またソ連や中国を排して「片面講和」を結び、さらに日米安保条約を締結した吉田に対する肯定的評価は、皆無とも言える状況であった。高坂は、「宰相吉田茂論」の冒頭で次のように記している。「これまで、吉田茂は評論家と知識人によって、恐ろしく不当に扱われて来た。吉田の独善ぶりと頑固さは、まるで決り文句のようにくり返されて来た。しかし、それは裏を返せば決断力と信念の固さということではないだろうか」。

 高坂は、学問的な誠実さを維持したまま、吉田本人に直接会って受けた印象を織り交ぜながら、吉田についての画期的な評伝を仕上げたのである。そしてそこでは、吉田が「国際政治について確固たる哲学を持ち、その哲学が指し示す地位を日本に与えようとしたのだ」と論じている。

 それではその「確固たる哲学」とは何か。高坂によれば、それは吉田が「軍事力には二次的な地位しか与えなかった」ことであり、また「政治的、経済的関係を国家間の関係の基本と信じ、その意味で名誉ある地位を日本が国際社会において占めるというひとつの願いを抱き、そのために努力して来た」ことである。

 冷戦時代に、軽武装と経済成長を基軸に据えて、日米同盟を基礎とした外交路線を確立したのが吉田茂であり、それが「吉田路線」であった。だが、冷戦後の日本に求められている国際的役割や、国際的なアイデンティティはそれと同一のものではない。いわば、冷戦後の新しい国際環境に応じて、外交路線もまたアップデートしなければならない。そして、それをはじめて大胆に実現しようと試み、ある程度成功したのが安倍元首相であった。

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