菅 義偉 安倍さんは私にとってあこがれだった
北朝鮮対応でつながった縁
私にとって、安倍晋三という政治家は「あこがれ」だったんです。
安倍さんのことは私が当選1回の時から知っていましたが、親しくなったのは2000年、当選2回の私が自民党総務になった時のことです。日本政府は当時、北朝鮮に50万トンの追加コメ支援を行うことを検討していました。私は総務会で、「北朝鮮の国民にきちんと届く保証がない。軍部が牛耳るに決まっている」と大反対し、その様子が新聞で報道されました。
それを見た安倍さんから「会いたい」と電話がかかってきました。安倍さんは「菅さんの言っていることは正しい。北朝鮮による日本人拉致問題の解決に向けて、一緒に行動してもらえればうれしい。拉致問題は国で解決しなければならないと思っている」と言っていました。その時、私は、この人はいつか天下を取るだろうと確信しました。
それをきっかけに親しくなり、私の地元で講演してくれたこともありました。02年9月、安倍さんは官房副長官として、小泉純一郎総理の北朝鮮訪問に同行し、まさに時の人となりました。訪朝後に開かれた私の会合に、たくさんの人が集まったのをよく覚えています。
小泉氏の後継総理を決める06年9月の自民党総裁選の際には、安倍さんから「再チャレンジ支援議員連盟」を作ってほしいと頼まれました。私や梶山弘志さん、菅原一秀さんが発起人になり、会長は山本有二さんにお願いしました。党内の派閥を超えて、安倍さんを支持する中堅・若手議員が結集しました。
最初は、なぜ私が頼まれたんだろうと不思議に思いました。当時はそこまで親しくなかったのに、議員連盟の陣容をどうするかまで、私に任せてくれたんです。
たぶん、安倍さんが所属していた森派では、(福田康夫元官房長官の擁立を模索する動きがあったため)安倍さんもやりにくかったんじゃないでしょうか。「順番があるから」とかなんとか言われていた時でしたよね。
第1次安倍内閣では、衆院当選4回の私をいきなり総務大臣にしてくれました。私は、大臣をできるのは1回だけだろう、やりたいことをやろうと思いました。
当時、在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)の関連施設に対して、多くの地方自治体が固定資産税を減免している問題がありました。私は、減免措置は公益性の観点から問題があると考え、それを改めるための通知を出すよう官僚に指示しました。役所は反対していました。
日本人拉致被害者の救出のため、NHKに短波の国際放送で北朝鮮に向けて拉致問題を放送するように求める命令も出しました。放送法には、総務大臣は命令放送できると書いてあったんです。
官僚はマスコミの反応を気にして反対しましたし、私は「命令大臣」とも呼ばれました。だけど、安倍総理とはよく相談していましたし、私のことを信頼して、いろんなことを任せてくれました。
ただ、その時はまだ、安倍総理と私は「一心同体」という関係ではなかったと思います。07年9月に総理は体調悪化を理由に退陣しますが、辞めることは事前に知らされていなかったですから。