菅 義偉 安倍さんは私にとってあこがれだった
再挑戦「恥はかかせられない」
本当に絆が深まったのは、安倍さんが総理を辞めてからです。1ヵ月に1回ぐらいは、議員会館の部屋で会っていましたよね。相談というか、よもやま話というか。
当時は、病気を治すのが第一でした。正直言って、安倍さんは再挑戦するつもりはなかったですよ。だけど、安倍さんには「何があっても安倍晋三」みたいな熱烈な支持者がいました。私自身も、第1次内閣があのような形で終わって非常に悔しかったので、再び総理にしたいと機会をうかがっていました。
体調が回復してきたころから、安倍さんを中心にした経済政策に関する勉強会を始めました。当時は円高で、株価が8000円台を切る直前まで下がった。有効求人倍率が1倍を超える地域は7、8県ぐらいしかなく、働きたいけど働く場所がないという状況だった。
12年9月の総裁選が近づくにつれ、私は安倍さんに半ば強引に、「総裁選に出馬するべきだ。今しかないぞ」と進言するわけです。あの時、うちの事務所で「安倍さんを応援する」と言ったら、秘書は全員反対でしたよ。その時は、信念みたいにやっていましたよね。
安倍さんを応援したのは、第1次内閣を見ていて、大局観と先見性、そして確かな国家観があると思っていたからですよ。ああ、こういうことも考えてやっているんだ、と思うことが結構ありました。
ただ、私が「国会議員票で勝利します。絶対大丈夫ですから、やりましょう」と言っても、なかなか「うん」と言わなかった。だけど、本人の断り方が少し変化して、可能性はゼロではないというのを感じていました。
決め手になったのは、12年8月の共同通信の世論調査でした。当時、どの報道機関の世論調査でも「次の首相にふさわしい人はだれか」という質問の選択肢に、安倍さんの名前は入っていなかった。「安倍さんは必ず出るから」と言って選択肢に入れてもらいました。自民党では9%台の石破茂さん、石原伸晃さんに続いて、安倍さんが6・8%でした。まだ出馬するとも言ってない時期でしたから、私はこの数字を見て十分に勝機があると思いましたね。
本人から聞いたことではありませんが、安倍さんもこの数字を見て自信を持ったんじゃないですかね。やはり1回目の辞め方が辞め方ですから、本人はすごく批判されていると思っていた。しかし、名乗りを上げていない中での数字でしたから、ここで自信を持ち始めたと思います。
それから総裁選に向けて一挙に走りましたね。
自民党の国会議員一人ひとりの支持動向を探り、蛍光ペンで名簿をチェックして票読みしました。2回目の勝負で、絶対に恥はかかせられないですからね。強引に押しながらも、そこは慎重でした。恥をかかせないだけの票は絶対出ると思っていましたし、全体で勝負すれば安倍晋三になると確信していました。
総裁に返り咲いたあと、総理は私にすごく感謝してくれている、というのはよくわかりました。明確な言葉は覚えていませんが、会っているだけでそう感じました。
(聞き手:川嶋三恵子)
(続きは『中央公論』2022年9月号で)
〔すがよしひで〕
1948年秋田県生まれ。法政大学法学部卒業。小此木彦三郎衆院議員の秘書を経て、横浜市議2期。96年衆議院議員初当選。総務相、自民党幹事長代行などを歴任。2012年に安倍政権で官房長官に就任し、在職期間は歴代最長。20年9月から21年10月まで第99代首相を務めた。