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石原 俊 忘れられた「南方」の戦時と戦後

石原 俊(明治学院大学教授)
日本近海および南洋群島地図(地図作成:地図屋もりそん)
 戦前の日本は南方の島々も統治下に置く一大海洋帝国であった。ただ、その崩壊過程における南方の実態については十分に語られて来なかった。戦後日本が忘却した悲劇について、石原俊明治学院大学教授が論じる。
(『中央公論』2022年9月号より抜粋)
目次
  1. 「南方」における戦争と帝国崩壊
  2. 南洋群島の疎開/動員政策
  3. 内地の島々への波及

「南方」における戦争と帝国崩壊

 1941年12月8日、真珠湾攻撃とほぼ同時に「南方作戦」を開始した日本軍は、42年3月に蘭領東インドのジャワ島を、4月にはボルネオ島を占領した。5月までに英領ビルマの占領を、7月までに米領フィリピンの制圧をほぼ完了し、日本帝国の勢力圏は最大版図に達した。

 だが、日本は短期的目標である油田地帯を確保したものの、東南アジア占領の中長期的目標であり「大東亜共栄圏」構想の中核でもあった、「生存圏」建設は難航をきわめた。日本軍が厳しい労務動員を優先したために、各地の食料生産力は著しく低下した。さらに、輸送力や制海権に関する甘い見通しのため、43年に入ると日本本土への資源輸送ルートは失われていき、ついには食料の地域間融通さえ破綻していったのである(1)。

「南方作戦」終了からほどなく、42年8月にソロモン諸島で連合国軍の本格的反攻が開始されると、日本軍は後退局面に転換し、43年になると明白な敗北局面に入っていく。米軍は、日本本土空襲が可能なマリアナ諸島を占領して北西太平洋のほぼ全域の制海権・制空権を確保した後、フィリピンへと向かう進攻ルートを選択した。その後、米軍が硫黄島を経て沖縄へと侵攻したのは周知の通りである。

 こうして、「大東亜戦争」の敗北局面において、これら北西太平洋の島々は、最も長期間の戦闘配置が広範かつ集中的に行われた軍事的前線となり、地上戦や兵站(へいたん)線の場とされた。この領域は、日本占領下のフィリピンや米領グアム島などを除けば、日本の内地(大日本帝国憲法の適用領域)と、国際連盟C式委任統治領(C式は住民の自治権が最も弱く受任国の統治権が最も強い)であった南洋群島(赤道以北のミクロネシア)に属しており、対米英蘭開戦前からの日本の勢力圏だった。

 大陸側(朝鮮・満洲〔現中国東北部〕など)に比べて意識されることが多くないが、日本は「大東亜共栄圏」構想よりはるか前、第一次大戦時から、おおむね日付変更線以西・赤道以北の広大な北西太平洋を統治する一大海洋帝国でもあった。したがって、この領域が地上戦や兵站線の場になることは、膨大な数の民間人の扱いが焦点になることを意味した。すなわち、日本人(朝鮮人らを含む)を中心とした民間人の軍務動員と避難・疎開をめぐる問題である。

 だが、「南方」における民間人の戦争や帝国崩壊の経験については、地域によって研究の精粗が著しい。激しい地上戦が行われた沖縄諸島(沖縄島と周辺離島)の住民の軍務動員や戦場経験に関する調査研究が突出している。沖縄県に関しては、沖縄諸島から九州方面への学童疎開、八重山列島から台湾への集団疎開、八重山列島内におけるマラリア有病地域への民間人の強制疎開と大量犠牲に関する調査研究も進んでいる(2)。

 一方で、その他の「南方」における民間人の疎開や軍務動員の実態と、その戦後への影響は、日本本土の大多数の人びとから忘れられてきた。そもそも、「南方」の疎開/動員政策の全体像を描こうとする研究者さえいない状態であった。筆者はこうした現状に一石を投じるべく、今春に一連の論考を発表したばかりである(3)。

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