石原 俊 忘れられた「南方」の戦時と戦後

石原 俊(明治学院大学教授)

南洋群島の疎開/動員政策

 1943年秋、大東亜省・南洋庁の指示により、絶対国防圏外となった南洋群島東部のマーシャル諸島などから、日本人「老幼婦女子」の集団疎開が始まった。だが日本はこの段階で、地上戦を想定した民間人の疎開や動員に関する法体系どころか、政策さえ整えていなかった。日本は開戦前の統治圏に攻め込まれた経験に乏しく、大本営の戦局の見通しも甘かったからである。

 ただ、空襲を想定した疎開に関しては、防空法(37年施行)がすでに整備されていた。当時の第一次改正防空法(41年施行)は現在の観点からみると不当なもので、空襲被害を避ける目的での民間人の事前退去を禁じていた。ただし、国民学校初等科相当以下または65歳以上の者、妊産褥婦らについては、退去禁止の例外を認めており、44年初頭に施行された第二次改正防空法では、これらの人びとに退去命令を発することも可能になった(4)。

 44年2月、トラック諸島空襲で日本海軍が大打撃を受けると、南洋庁は「南洋群島人口疎開要綱」を発表し、14歳未満と60歳以上の日本人を速やかに疎開させる方針を示した(5)。同要綱の策定にあたっては、防空法を参照して疎開/残留の線引きが行われたことが明らかである。

 マリアナ諸島在住日本人のうち、14~59歳の男性の大部分は疎開の対象から外され、その多くが軍属として徴用された。この段階での兵役法は14~18歳の者を兵として召集することを認めていなかったので、14~18歳の男性を兵站業務要員である軍属身分で徴用したうえで、地上戦の際には戦闘支援業務にも従事させる手法がとられたことになる。44年4月、東条英機内閣は「南洋群島戦時非常措置要綱」を閣議決定し、現地軍と南洋庁が進めてきた動員方針を追認している。

 44年6月15日、サイパン島に米軍が上陸する。サイパン島地上戦における内地出身の民間人(現地徴用軍属を含む)の死者数は約1万人、テニアン島地上戦における内地出身の民間人(同)の死者数は約3500人と推計される(6)。

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