御厨 貴×中北浩爾 『安倍晋三 回顧録』を点検する――史料として読んでいくために

御厨 貴(東京大学先端科学技術研究センターフェロー)×中北浩爾(中央大学教授)

「我が闘争の記」を遺した理由

──御厨さんはご著書のなかで、「万人のために、公人の語る言葉を、専門家が記述する歴史」がオーラル・ヒストリーであると定義されています。この回顧録もそのように読むことは可能でしょうか?


御厨 前書きではこの本が、「歴史の法廷に提出する安倍晋三の『陳述書』」とされています。どうも安倍さんにも聞き手の方々にも、普通の回顧録にはしないという意識があったのではないでしょうか。

 これまでの政治家のオーラル・ヒストリーでは、語り手と聞き手は新しい歴史を作る共同作業者として、少なくとも建前上は対等の立場に位置付けられていました。ところが、この本では聞き手の質問に対して、安倍さんが喋り倒すというスタイルが貫かれています。「敵」からの反論を想定し、先んじて倒してしまおうという攻撃性が、ときに不穏当にも映る発言に見え隠れしています。

 また、つい「遺言」として見てしまいたくなりますが、安倍さん自身はこの本を現役政治家として世に問うつもりでいたわけですから、進行形の「我が闘争の記」なんですね。


中北 第一人者である御厨先生の言葉に、何かを付け加えるのは畏れ多いのですが、一点だけ申し上げると、オーラル・ヒストリーをめぐる環境の変化を感じます。

 かつては政治家たるもの、体験したことは黙して語らず、墓場まで持っていくことこそが美徳とされていたため、回顧録が出るまでにはそれなりの年数が必要でした。ところが民主党政権の末期に、元朝日新聞政治部長の薬師寺克行さん(東洋大学社会学部教授)による『証言民主党政権』が刊行され、潮目が変わったように感じています。政権交代後は御厨先生と牧原出(いづる)さん、佐藤信(しん)さんによる『政権交代を超えて』や、山口二郎さんと私が編纂した『民主党政権とは何だったのか』などの証言本が多数刊行されていったわけですが、それらはやはり自公への政権交代という政治状況の断絶が契機になっていたと思います。

 ところがこの本の場合は、そのような状況の断絶はありません。ですから安倍さん自身も出版をためらわれたようですし、不幸な事件がなければ今でも出ていなかったかもしれませんが、首相退任直後からインタビューが始まっていたという事実に、政治家のオーラル・ヒストリーに対する意識の変化が見て取れると思います。

 御厨先生がおっしゃるように、この本には従来の回顧録にあった語り手と聞き手との距離感、緊張感は感じられません。そのかわりに、安倍さんが考えていたことがそのまま出ているという特徴があります。安倍さんが語ったことの客観性とは別に、彼の脳内がわかるという意味で非常に貴重な史料であり、正統派のオーラル・ヒストリーとは異なる価値を持っているとは言えますね。


御厨 政治家のオーラル・ヒストリーの嚆矢といえば中曽根康弘さんの『天地有情(ゆうじょう)』ですが、中曽根さんは自身が後世の人の目にどう映るかを考えて慎重に言葉を選ぶ人なので、何度も語り直され、何冊も回想録が出ることになりました。口が重い人からどうやって本音を引き出すかが聞き手の手腕で、語り手に翻弄されることも少なくありませんでした。ところが、安倍さんの場合は、とにかく本人が喋りたいし、敵を叩きたくてしかたがない。口が滑っている部分も多く、読むほうが慎重にならざるをえないところがあります。

 その意味では、すごく面白いし証言として大変に貴重ではあるけれど、まだ生煮えの状態で世に出てしまった本であるとも言えますね。素材がまだ料理になりきっていない状態で、皿に生々しく載せられている。その躍動感は凄まじいものがありますが、この本だけで終わると、客観性をもった史料とは言えないですね。

(続きは『中央公論』2023年5月号で)

構成:柳瀬 徹

安倍晋三 回顧録

安倍晋三 著/橋本五郎/尾山宏 聞き手/北村滋 監修

あまりに機微に触れるとして一度は安倍元首相が刊行を見送った、計18回、36時間にわたる未公開インタビューを全て収録。知られざる宰相の「孤独」「決断」「暗闘」が明かされます。

  • amazon
  • 楽天ブックス
  • 7net
  • 紀伊國屋
  • honto
中央公論 2023年5月号
電子版
オンライン書店
  • amazon
  • 楽天ブックス
  • 7net
  • 紀伊國屋
  • honto
  • TSUTAYA
御厨 貴(東京大学先端科学技術研究センターフェロー)×中北浩爾(中央大学教授)
◆御厨 貴〔みくりやたかし〕
1951年東京都生まれ。東京大学法学部卒業。博士(学術)。東京都立大学教授、政策研究大学院大学教授、東京大学先端科学技術研究センター教授などを歴任。「東日本大震災復興構想会議」議長代理などを務める。『政策の総合と権力』『馬場恒吾の面目』など著書多数。

◆中北浩爾〔なかきたこうじ〕
1968年三重県生まれ。東京大学大学院法学政治学科研究科博士課程中途退学。博士(法学)。立教大学教授、一橋大学教授などを経て現職。専門は日本政治外交史、現代日本政治論。著書に『自民党──「一強」の実像』『自公政権とは何か』『日本共産党』など。

構成
◆柳瀬 徹
ライター
1  2