野田佳彦 痛感した総理の重責、再び非自民で担う覚悟あり
原点にある改革の熱気
――その選挙制度改革も含めた「政治改革関連法」の成立は、初当選の翌年の1994年でした。改めて、30年前を振り返っていただけますか。
当時は、永田町はもとより、世の中全体に政治改革の熱気が充満していましたね。みんなが、あんなに熱く政治を見つめた時期はなかったのではないでしょうか。
もちろん法案をめぐる議論には紆余曲折があって、何度も挫折しそうになりました。それを乗り越えて、当時の細川護熙首相と河野洋平自民党総裁が、お互いの万年筆を交換して合意文書にサインした。あの時の鳥肌の立つような感動は、忘れられません。
――野田さんは、早稲田大学政治経済学部を卒業後、マスコミの内定を蹴って、できたばかりの松下政経塾に入塾する道を選ばれました。もともと政治改革に強い関心をお持ちだったわけですね。
そうです。私が志したのは、政治家であり「政治改革家」でした。それに大きな影響を与えたのは、ヘンリー・ジェームズという19世紀末のイギリスの政治家です。
現在のイギリスからは想像しがたいのですが、当時のロンドンでは、議員に当選したかったらパブで有権者に驕るというのが最も手っ取り早い方法で、1票が5万円くらいで売り買いされていたんですね。彼は、その風土を変えよう、と訴えて運動を起こし、1883年の「腐敗防止法」制定の立役者となりました。それを機に、かの国の「金権腐敗」の政治は根絶され、140年後の今に至ります。
この偉大な政治家のことを知ったのは、大学で政治学を学んでいた時なのですが、以来、政治家になるのなら、この人のような仕事をしたいな、と。その思いに従い、金権風土のあった千葉で徒手空拳で県議選に挑み、衆院選でも政治改革を掲げました。ですから、政治改革関連法が成立した時には、一歩彼に近づけたかな、という高揚感も味わったのです。
しかし、その後の30年を振り返ると、当時目指した政治の形が実現できたとは言いがたい現実があります。政権交代は実現しましたが、「単発」に終わっています。自民党による一強状態が長期化したことで、現場から緊張感が失われ、「賄賂政治」が復活しつつあるように見えるのも、残念なことと言うしかありません。