少子化対策はスウェーデンの苦闘の歴史から学べ
初期の少子化対策と現金給付
図はスウェーデンの合計特殊出生率の変化を歴史的に追ったものである。ここからも分かるように、20世紀に入ったころから合計特殊出生率の低下が顕著になり、1935年には1・74まで落ち込んだ。日本の出生率がそこまで低下したのは85年前後のことである(その4年後にいわゆる1・57ショックが起きた)。スウェーデンでは日本に約50年先だって人口減少の危機に見舞われていたことになる。
スウェーデンでは当初、少子化対策をめぐる政治的対立がきわめて深刻であった。この時期の少子化は、中間層の既婚世帯が余裕のある生活を送るために子どもを産まなくなることから生じていた。保守派は、これを女性が本来の役割を見失ったことによる道徳問題であると決めつけた。これに対して労働組合などのリベラル派は、人手不足のほうが賃金は上がるとして、少子化の危機を煽るのは保守派の策略であるとした。保守派が避妊具の販売を規制したのに対抗して、リベラル派は避妊具を街頭で配布するという、いささか戯画的な事態にもなった。
そのなかで、政治的合意をつくりだす重要な役割を果たしたのが、後にノーベル賞を受けた経済学者のグンナー・ミュルダールであった。ミュルダールが妻で社会学者のアルヴァと共に執筆し、34年に公刊した『人口問題の危機』は、すべてのスウェーデン人が3人の子どもを持てるために必要な社会保障や雇用のあり方を示し、ベストセラーとなった(日本語訳は岩波書店から年内刊行予定)。夫妻はリベラル派に対しては、人口減少を食い止めなければ経済が衰退し生活水準の維持は困難であることを説き、保守派には、少子化が道徳的な問題ではなく社会保障の課題であることを納得させた。
こうした問題提起を受けて、当時の社会民主党政権は35年に超党派で少子化対策を検討する「人口問題委員会」を設置し、議論をすすめた。同委員会で保守派とリベラル派が接近するなかで、37年に出産手当の導入が決まった。
この出産手当制度が画期的であったのは、所得制限が所得上位の約1割とごく狭い範囲に留まったことである。当時は福祉制度といえば対象を困窮層に限定した選別主義的な給付が当たり前であった。そこにほとんどの国民を対象とした普遍主義的な制度が誕生したのである。さらにその後、48年には所得制限を完全になくした児童手当制度が実現した。
この30年代から40年代の時期に、少子化対策を軸としたスウェーデンの福祉国家ビジョンがはっきりかたちを現した。手厚い福祉への合意や経済成長との両立はなぜ可能だったか、その理由を説明するカギがここにある。
少子化の背景にはすべての国民に関わる出産・子育てリスクがあり、そのための対策は普遍主義的な施策とならざるをえない。そしてすべての国民を対象とする以上、政策の目的は「救済」ではありえない。誰もがライフサイクルのなかで直面しうるリスクに対処できて、強靱な次世代が育成されるという点で、教育費などの子育てコストを削減する少子化対策は、社会的な「投資」となるのである。
(続きは『中央公論』2024年7号で)
1958年東京都生まれ。中央大学大学院法学研究科博士後期課程修了。博士(政治学)。専門は比較政治、福祉政策論。社会保障審議会委員等を歴任。『福祉国家という戦略』『福祉政治』『共生保障』『貧困・介護・育児の政治』など著書多数。