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鈴木涼美 権力者が「わきまえる女」を好きなのは当たり前、女性たちの戦いの核心はどこにある(斎藤美奈子『モダンガール論』を読む)

第3回 100年越しの女の味付け(斎藤美奈子『モダンガール論』)
鈴木涼美

ブチギレとバッシングの繰り返し

 というのは、この「#わきまえない女」たちのブチギレにも、それを叩こうとする論調にも激しく見覚えがあるからです。たとえば平塚らいてうの『青鞜』が掲げた「新しい女」。あるいはそれと非常に似た主張を持っていた70年代始めのウーマンリブ。時代背景は違えどそれらの主張は、たとえば今の森発言に対する抗議としても成立するほど真っ当さを失っていない面は大いにあります。らいてうの宣言「新しい女は最早しいたげられる旧い女の歩んだ黙々として、はた唯々として歩むに堪えない」なんてほとんど「わきまえない女」の先取りです。そして、それらはその時々で、自分の方が真っ当だと信じる主に男性の論客たちから激しくバッシングされました。その構図も、「#MeToo」から「#わきまえない女」に至る最近の女性たちの戦いとあまり変わりません。ちなみに、今ではその感覚の古さが私たち自身の黒歴史になりつつあるギャルだって、その当時はオジサンたちにもオバサンたちにも相当バッシングされたのですが。
 しつこく文句を言っても男たちが変わらないから、似たような抗議が繰り返される、というのは一つの真理ですが、それぞれの運動が途切れることなく継続して熱を帯びていたかというとそうでもないわけです。戦争があったり、あるいはファッション誌的なブームがあったりして、ひと時代前の運動の熱は敵的勢力だけではなく、ほかでもない私たち自身によって、常に冷まされてきました。そして新たな運動が起きる時には、どうして前の熱が冷めたのかなどということは基本的に忘れ去られています。

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