鈴木涼美 夜のオネエサンのお金事情、財布に800円でも嗤える明るさ(内田百聞『大貧帳』を読む)
貧乏人の苦労話とは一線を画すオカネの話
オカネの話ばかりしておきながら、オカネがないということに特別悪びれもせず、淡々と記述するのが内田百聞の『大貧帳』です。品がないとか、文化とは対極にあるとかいう印象から、オカネの話をするときに変に身構える書き手は多いと思うのですが、百聞の場合、正面から事細かに金額や内訳も含めたオカネの話をしておいて、どうしてかその筆致は少し他人事っぽさを残して、貧困系のジャーナリズムや貧乏人の苦労話とは一線を画しています。
「お金に縁のある者と、ない者とが集まって、人の世を造っていると云うだけの事であって、どっちか一方だけに片づいてしまったら、窮屈な事であろう。お金に縁のある人がお金をためているのは、私共の側から見ても結構な事であって、又何かの役に立つ事もあろうと思われる」
漱石の弟子で学校では先生で、著名な文章家であるにも拘わらず、家にちょっともオカネがないという事態にしょっちゅう陥っているこの人は、こんな調子で自らのオカネのなさについてはあまり嘆きません。ただし、質屋と懇意にしていることを近所に見られることはマズいと思ったり、オカネがないのに人に無心されたら人に借りてまで貸したりと変に見栄を張るようなところはあって、しかも、貸すときは無心された額よりも多く包むべきだなんて講釈たれることすらあります。
一度、人にオカネを貸してくれと頼まれて、家にある分では頼まれた金額ギリギリになってしまうので家の者を他所に借りに走らせたら、そうこうしているうちに、貸してくれと頼まれたそのこと自体が詐欺だったと判明する、なんて珍事件があり、そんな時、「私に右の様な心掛けがなかったら、うまうまと騙りにせしめられるのであった。友人に金を貸してやる様な立ち場に起った人は一通りこの話を玩味せられん事を希望する」と、どこから目線なのかはよくわからないけれども何故か思いっきり上投げのアドバイスを書くこともあります。