鈴木涼美 オンナノコとオンナの間にある、センシティブで荒々しい時間(『"少女神"第9号』を読む)
オトナも弱いと知ることが
物語の中の彼女たちにとって、周囲のオトナもとても厄介な存在です。
「おとぎばなしがみんなほんとうになるはずがない、なんて教えてもらわなくてもいい。いわれなくてもよくわかっている。」
「ラーは顔を上げるのも、身動きするのもこわかった。ローズ先生がきらいになった。」
「急にイジーとアナスターシャのことがしゃくにさわってきて、何もしゃべりたくなくなった。いつもふたりは何でも理解しようとしたり、説明しようとしたりする。」
「パパが出てってから、ママはほんとにおかしくなっちゃったの。あたしが男の子といると、すごく怒るし」
オトナが厄介なのは、彼女たちがまだ身体の全部や一部、彼らの所有物のようでもあるからでしょう。そしてまだオトナやオンナになりきっていない彼女たちは、オトナもかつて自分のような苦しみの中から生まれたのだということを実感として知りません。だからオトナがしないような遊びをしたり、オトナの嫌がることをしたり、オトナの悪口を言ってみたりして、オトナと自分を差別化し、その度にオトナになりきってしまうのを拒絶するのです。時には自分自身を傷つけてまで、あるいは最悪の場合には命を落としかけてまで、スムーズな移行を阻止するのは、彼女たちがこれから否が応でも、自分にとって厄介な存在で時には敵になるような存在に、自らなっていかなくてはならないからかもしれません。
何か一つの答えや解決策で、青春の痛みが和らぐなんていうことはありません。身体が完全にオンナノコからオトナになってしまって、ピアスやタトゥーを自由にして、セックスを経験しても、痛みが後を引くことだってあります。それでもあの脱皮の、ヒリヒリした苦しみに、この物語は少しだけ薬を添えているようにも思えるのです。それは、オトナも傷ついていること、オトナにも痛みがあること、オトナも弱いということ。それを知った時に物語の中の彼女たちも私たちも、青春の痛みを少しだけ受け入れ、これが自分だけにアンフェアに降りかかっているものではないと学びます。
もちろん、そんなことを知ったところで、あるいはすでにそんなことを知っていたとしても、日常は平坦で、事件は荒っぽく、傷口は痛々しい。だからこそ、トゥイーティーの水着や、七十年代の銀色の厚底靴や、ロックのライブとラッパ飲みするビールや、ピンクのミニドレスで彩られた眩い時間で、青春を誤魔化し、楽しみ、やり過ごす術が、私たちには与えられているのです。