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鈴木涼美 シニシズムの代償を払ってなお、言葉で切り刻んだ空気の隙間から見る世界は魅力的だった(『夜になっても遊びつづけろ』を読む)

第7回 夜が過ぎても生き残る可能性があるなら(金井美恵子『夜になっても遊びつづけろ』)
鈴木涼美

結局は明日も来年も生きていると信じていた

 思えば、未来のことよりその日の夜のことに重きを置いて、刹那的に振舞っていたかに思える私自身の幼い記憶も、いくらなんでも全てその日暮らしで、明日のことなど一切考えない日ばかりだったわけではありません。もしそうだったとしたら、家賃を払ったり、タンパク質とビタミンを取ったり、修士論文のための資料集めに国会図書館に通ったり、永久脱毛したりはしないですから、破滅的に見えても結局は明日も来年も生きていると盲信的に信じていたわけです。ただそれらの美容や学歴など全て、大体35歳くらいまで惨めにならずに楽しく生きていくために重ねたような気がします。だから家庭を持ったり、子供を教育したり、40歳すぎて刺青を消したり、日焼けのせいで老後の肌が荒れたりするイメージは全く湧かないまま、しかし家賃や住民税や保険料は払って、脱毛や大学にも通って生きてきたのです。何の根拠もなく、また何か特別な死への誘惑があったわけでもなく、ちょうど今の年齢くらいまでのイメージだけ持っていました。

 生き延びたのか、生き残ってしまったのか、とにかく私は美しきセックス・アイコンたちが死んだ後も生きていて、そして自分のイメージやプランの中に全くなかった年齢を超えつつあります。それは残念なことに全くドラマチックではないけれど、でも死より生の方が幾らか明るいような気もするし、少なくとも生きていることが苦痛だったことはないので、ひとまず良いことだということとしましょう。

 そして私が退屈な身体を抱えてでも生き延びた理由があるとしたら、あるいは私の身体や日常がこれからさらにつまらなくなるとしても、何となく生きていくことに楽観的にいられるとしたら、それは言葉があるからだと思うのです。それは別に、私に卓越した言葉遣いの才能があるとか、誰よりも多くの言葉を持っているという意味ではないけれど、少なくとも言葉の力に頼ることなくして、やすやすと生き延びているということはあり得ません。

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