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鈴木涼美 シニシズムの代償を払ってなお、言葉で切り刻んだ空気の隙間から見る世界は魅力的だった(『夜になっても遊びつづけろ』を読む)

第7回 夜が過ぎても生き残る可能性があるなら(金井美恵子『夜になっても遊びつづけろ』)
鈴木涼美

SNSの善比べは回避できる無駄

 金井美恵子の初期のエッセイを集めた『夜になっても遊びつづけろ』を手に取ったのは、私がちょうど10代の終わりに近づいた頃でした。言葉について著された文章だけでなく、幸福や若さについて、映画や人物についての文章が連なるそれは、私が言葉に意識的になった契機という側面もありますが、何より言葉を獲得する過程の糧になった本です。筆致には緩みや気遣いがなく、あてがう言葉を持つ人は、たとえばこのように青春、あるいは若さをまなざすことができるのだと、幼い私を妙に納得させました。シニシズムという代償を払ってなお、言葉によって切り刻んだ空気の隙間から見る世界は魅力的に思えたのです。

 迂闊な若者の多くは、自分に必要な言葉と自分に求められている言葉を混同し、つまり自分の正誤表を世間一般的な意味での善悪となるべく近しいものにしなければならないという強迫観念を持ってもがくのが常で、それを最近流行の言い方で生きづらいと表現することになります。世間で単純に善悪とされていることを参考までに頭に入れておくことは処世の役には立ちますが、それが自分の持つ感覚と一致してしまってはまずい。むしろマスの圧力によって押し付けられる善悪の座標が、個人によっていかに書き換えられるか、その幅の広さを把握しておくために青春の時間は費やすべきです。今、SNSなどで多くの若者や社会人の時間を奪っている、善くらべのような行為、つまり双方が無知な相手に正しい善悪を植え付けようとする行為や、弁のたつ者がそうでない者の善悪を一掃するような行為は、青春の過ごし方によっては回避できる無駄だからです。そうした行為が暇潰しになるのはせいぜい自分の数倍力と言葉を持つと認めざるを得ないような相手にけしかけ、打ちのめされるという敗者の快感を得られる時に限ります。

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