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鈴木涼美 シニシズムの代償を払ってなお、言葉で切り刻んだ空気の隙間から見る世界は魅力的だった(『夜になっても遊びつづけろ』を読む)

第7回 夜が過ぎても生き残る可能性があるなら(金井美恵子『夜になっても遊びつづけろ』)
鈴木涼美

自分自身の言葉を持つこと

「ようするに、大衆はことばによる表現ということを知らない。国家という体制のなかで、民衆に割りあてられたことばしか知らないのだから、おしゃべりのほかにはことばというものを持っていないのである」

 これは十代の時に「愛の生活」で小説家として多くの評価を得てデビューした金井美恵子が二十歳前後の時に随筆サンケイに寄せた「優しい言葉に......」というエッセイの一文です。♪やさしい言葉にまどわされ、このひとだけはと信じてる、と歌う歌謡曲「骨まで愛して」に言及するところから始め、「この種のことばに惑わされたり、だまされたり、というのは大衆の歴史であり、口説が直接生活の窮状にかかわってくるものであるだけに、歌にうたわれた大衆のウラミツラミにはきりがないだろう」「大衆は自ら、ことばが論理にではなく、おしゃべりのなかにしか存在しないことを告白している。ことばでいわれたって信用しないというモラルがそれであり、これは当然、ことばでならなんとでもいえるのであり、不言実行が美徳とされるゆえんである。こうして大衆は自らの言語不信に陥ってしまっている」と続けます。「自己表現に関する内在的な自己のことばを所有しないために、沈黙と言語不信に陥っている大衆は、反作用の強烈さによって今度は、彼らが知識とか良識とかであると思い込んでいるところの、新聞雑誌およびテレビで語られることばを、コマーシャルも含めて信じることになるのだ。惑わされるということは、何かを信じることだ」。

 人が言葉について持つ感覚というのは特殊なものです。昭和歌謡にとどまらず、平成になっても、ヒットソングの中では常に言葉にならないもの(気持ちや愛など)こそ高尚で、言葉はいかにも軽薄なものとして扱われることはしばしばある反面、言葉による理解への憧れは教育や恋愛などいくつもの場面で見受けられます。言葉狩りなどと言われるように、凶器としても認められ、言葉によって自尊心を傷つけられることが、最近では最も一般的な、劇的な自殺の理由の一つに数えられます。ただ少なくとも生きづらさをある程度回避すると考えた時に、言葉に惑わされない、つまりは自分自身の言葉を持つことは一つ何かの術になるはずです。矛盾する言い方ですが、そうしてよってのみ、言葉過信からも逃れられる気がします。

 上のエッセイと同じ本の中に60年代にマスコミが注目した一部の非行動的な若者「フーテン族」について紡がれた文章が収録されています。「混乱しっぱなしのように見えて、実はどうにも変わりようのない堅固な世界に変革の夢を持って、華々しく、みっともなく挫折と試行錯誤のラディカルな虚花を咲かせ散らしていったかつての青春の数々に、フーテンたちは無言のノンを言う」。そしてそのエッセイも、最後にこんな一文で締め括られます。「表現と言える言葉を彼らが所有した時、彼らはまだフーテンという曖昧な集団を作っている必要があるだろうか。ある意味では社会を遮断するバリヤーに囲まれていたフーテン集団は、非順応的な少年たちの貧しい地上楽園でさえあった」。

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