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鈴木涼美 ピンサロ嬢のお姉ちゃんの強くて美しい魂は、最も汚れ蔑まれる場所で咲く(西原理恵子『ぼくんち』を読む)

第8回 ありえないほど汚れた場所の、ありえないほど高貴な信仰(西原理恵子『ぼくんち』)
鈴木涼美

私が神様の存在を信じられる二つの話

 信仰に関する言葉の中で、個人的にものすごく印象に残っていて、さらにこういう形の神様であったらもしかしたらいるのかもしれない、と思った表現というのが二つあります。

 一つ目は、ドストエフスキー『白痴』に出てくる二人の百姓の話。昔から知り合いであった二人の年配の百姓のうち一人が、もう一人の百姓が黄色い南京玉の紐のついている銀時計を持っていることに気づきます。それまで連れがそんなものを持っていたことを知らなかった彼は、別にとりたてて貧しいわけでももともと泥棒であったわけでもないのだけど、その時計が気に入ってしまって、連れが後ろを向いた隙にナイフで後ろから斬り殺してしまいます。その斬り殺す直前に彼は天を見上げて十字を切り、「主よ、キリストに免じてゆるしたまえ!」(新潮文庫・上巻)と心の中で言うのです。これは病気療養のために長らくスイスに滞在して帰ってきた主人公のムイシュキン公爵が、ロシア人の信仰について話す4つのエピソードのうちの一つなのですが、もし神様がいるとしたら、それは教会の賛美歌の先ではなく、人を殺す瞬間にまろび出るような、逼迫した信仰心の中にこそいるような気がしました。

 二つ目は西原理恵子『ぼくんち』の登場人物であるさおりちゃんの言葉です。さおりちゃんは、底辺のヤクザである父と二人暮らしで、いつも薬や酒に溺れて暴れる父の面倒を見て生きている小さな女の子で、この時も父は、絶対に手をつけたらいけないお金を「2倍3倍になるんじゃあ」と言って持って出ていってしまいました。父の割った食器を片付けながら、「ぼく」に向かって「神様て、いると思うか?」「うちは神様はおると思うで。ただしうちらの街の山の上の金持ち専用のな」「神様のおらんうちら貧乏人が何かしよう思たら、自分の力でせなあかん」と皮肉っぽいことを言います。その3日後、ぼくとさおりちゃんは水死体の前に立っていて、さおりちゃんの父は3日帰ってきていません。港でふらふらしているところが目撃されていて、そして目の前にはシートを被せられた水死体があります。ここで、さおりちゃんばボソッと「神様。」と呟くのです。結局水死体は父のものではありませんでした。この「神様」もまた、私の好きな、信じるに足ると思えるような神様の形です。

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