新書大賞2022大賞・小島庸平先生 講演動画を公開中!

鈴木涼美 最も大切にするべき無意味の自由を、大人は自ら手放してしまう(ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』を読む)

第9回 もしアリスが女の子ではなかったら(ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』)
鈴木涼美

迷子になった夢

 夢の内容は単純で、毎日通っている幼稚園の門と聖堂の間のせいぜい20メートル四方のちょっとした内庭が、急にみるみる広くなって、門も聖堂もどんどん遠く、次第に見えないほどになり、そこに見慣れない街が出現するというものでした。街の中には、見覚えのある商店もあれば、全く知らない青い屋根の家もあって、私は必死に知り合いや力になってくれそうな人を探します。近所でよく前を通る焼き鳥屋が目に入ったので、ガラス越しに鶏を焼いている料理人に向かって声を上げますが、ガラスが分厚いのか、鶏に集中しているのか、全く気づいてもらえません。仕方なく歩いていると、結構友人に出くわしたり、近所の人が飼っていたヨークシャー・テリアが角に繋がれていたりして気も紛れるし、特に空腹に苦しむことも、途方に暮れることもなく、遠くには自分の住んでいるマンションが見えていることにも気づきます。

 親友の姿が見えて、大声で名前を呼んだところで目が覚めて、私は当然、普段寝ているベッドにいたのですが、別に夢で良かったとか、焦ったとか怖かったとか、気付かぬうちに泣いていたとかいうことは全くなく、ただ夢の内容は細かく覚えていて、普段私が何より恐れていたような事態は、実際に(夢だけど)経験してみれば大して深刻なものではないのではないかという気分でした。

 子供はマンションや幼稚園の限られた狭い世界で生きているけれど、実は自分の知らない世界は想像を絶するほど広くて、しかもそれを徐々に知るのではなく、ある日突然、昨日までの何倍にも広い世界に放り込まれ、それを繰り返すことでかつて全てだった狭い世界がどれくらい狭いものだったかを理解するようになります。それは小学校に入るとか、大学で学問を知るとか、グランドキャニオンを見るとか、海外でゆきずりのセックスを知るとか、手間のかかったきっかけである場合もあるけど、意外と頓珍漢な夢で簡単に理解できてしまうこともあるのかもしれません。いずれにせよ私はそのあたりの時期から、それまで過剰なほど持っていた慎重さを徐々に見失い、思春期を迎える頃には、入らなくてもいいような世界に入って行ったり、落ちなくていい落とし穴に何度も落ちたり、しなくてもいい寄り道をして何かしら痛い目を見たりする、傍若無人といえば聞こえはいいものの、思慮深さとはかけ離れた、浅はかなオンナになっていくのでした。

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