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鈴木涼美 心なんてどうせ整わないからせめて言葉を整えてみる(井上ひさし『私家版 日本語文法』を読む)

第14回 若い女の心はそう整うものじゃない(井上ひさし『私家版 日本語文法』)
鈴木涼美

人は人生を言葉を通じて把握する

 そしてその過程に最も寄与してくれるのが、私たちが毎日使い、発さなくとも少なくとも心の中で使い、ワンコやニャンコにはない記録を可能にする言葉の機能だと思っています。そして、自分の凡庸さを受け入れる戦いこそ青春だとしたら、凡庸な存在でなくしてくれるのではなく、凡庸な存在であっても多分結構人生は楽しむに値すると思わせてくれるものでもあります。という割には私たちは青春の最初の方を、大抵は英語の習得などに気を取られて、母国語の構造については「喋れればいいじゃん」をモットーに忘却して過ごしているのも事実です。「接続詞」とか「人称代名詞」とかいう文法用語を最後に聞いた記憶が、大体は英語の授業に偏っている人は多いでしょうし、確かに母国語というのは記憶が鮮明じゃない超若い頃にその極意を習得してしまっていて、人はすでに使えてしまっているものについて、不具合でもない限り点検するほど暇ではないでしょう。でも、言葉に不具合がないと思っていても、人生に感じている不具合が言葉に起因するものであれば、やはり言葉に関係しているとも考えられる。当たり前ですが人は人生を言葉を通じて把握しているからです。

「ひとつ、わたしたちは始終、相手との間を測り、相手と間を合わせることに苦心しているが、この間を微調整するために、無限に近い人代名詞を必要とするのである。ふたつ、そうやってできあがった間を固定させておくためにコソアドという遠近区分け法がある。いわば前者は〔相手に合わせての自分定め〕、後者は〔相手との共同の縄張りづくり〕というべきものであるが、ひっくるめて相手との関係が断絶状態におちいるのを防ぎ、間を保たせようとする工夫ではないだろうか」

 これは井上ひさし『私家版 日本語文法』に収録された「ナカマとヨソモノ」という文章の冒頭近くの一部です。文法学者が書いた文法書を読むほど暇で生真面目な若者というのはほとんど存在しません。凡庸さの極みのような逸脱を繰り返していた私も、土日は撮影やデートがあるし、平日は同伴やアフターがあるしで忙しく、そもそも文法を真面目に研究してみようという気概は持ち合わせていませんでした。ただ、どうせ日本語について見直すのであれば、自分が最も好きな言葉を遣う人、この人のような日本語を遣いたいと思える人の言うことならちょっと聞いてやってもいいかなという程度の気持ちで読んだのがこの本です。私は井上ひさしのお芝居と小説の愛読者だったし、話をどんどん脇道に逸らせて、くだらない言葉遊びと必然的な風刺を盛り込む彼の性質が、どういった日本語理解の上に成立しているのかには興味がありました。

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