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鈴木涼美 心なんてどうせ整わないからせめて言葉を整えてみる(井上ひさし『私家版 日本語文法』を読む)

第14回 若い女の心はそう整うものじゃない(井上ひさし『私家版 日本語文法』)
鈴木涼美

「文法」という物差しで眺めてみれば

「怠け者の自己弁護、さもなくばズーズー弁圏出身者のひがみ、どちらととってくださってもよろしいが、文法授業の初期に、いわゆる日本語とわたしたちの常用語との境目あたりについて、一時間でいいからなにか説明があればもっと日本語文法に興味が持てただろう」と、初っ端から文法教育については若干中指を立てた本書は、あらゆる文法についての基本文献を引いては時に異論を唱え、風俗の求人や新聞の投書など幅広い事例を使いながら、日本語の語法とそれに関係していると見られる我々の考え方を邪推していきます。所々になかなか切れ味鋭い政治批判が盛り込まれてもいますが、たった今解説した言葉について嫌味っぽく大袈裟に実際の文章で早速使用していたり、「筆者の偏見的独断」「筆者の思いすごし」などと称して暴論のような言い得て妙のような独自の解釈が出てきたりもします。

 日本語における接続詞の曖昧かつあまり重要視されない特質を、夫婦交換(スワッピング)の専門誌のメッセージ欄からの引用で確認した上で、「あまり接続詞を使わぬということは、論を立てるのを好まぬということと同義である。そうなのだ、わたしたちは情感を表現するのに有効でないものは使おうとしないのだ」と論を進めます。漢字を使う日本語の造語力の豊かさを示す事例として「各個室カラオケ設置開業七周年記念出血覚悟大奉仕」という連れ込みモテルの広告文を引っ張り出し、「連れ込みモテルの客引き惹句に「出血覚悟大奉仕」とは考えたもので、支配人のこの洒落っ気には思わず膝を打った」とかなんとか言いつつ、「〜的」「〜化」「~風」「〜ぶる」「〜っぽい」「〜らしい」など接尾語の豊かな発展は、「ある状態を、ある感覚を、そしてある性質態度を、より正確に表現しようとして、出来合いの語では言い足りぬところから発明された便法だろう。その便法の大部分がよりよく悪態をつき、よりよく批判するためだったとすると、どうも人間とは性悪な生き物であるらしい」と拙速な暴論に急ぐ箇所もあり、基本的に若い私は笑いながら読んでいました。

 日本語の敬語体系がこれほどまでにはっきりあることを「恩の売り買い」をしているのではないかという著者の指摘は示唆に富むし、身振りや表情が乏しいと言われる日本語に敬語がものすごく豊かに用意されているのは、「どの国の人びともほぼ同じ量の<敬語量>を持つ」のではと訝しがる点も「そうかも?」と思わせます。ただそれ以上に、「自分の息子が東大を一番で卒業し大蔵省に入り、将来は大蔵次官から政界へ転進し、保守党内閣の中枢となるだろうことは約束されていても決して「うちの賢息は」などと呼んではならぬ」「同時に相手の息子がどんなに不出来であろうとも「うけたまわれば、御賢息様には、婦女暴行の容疑で警察に連行されなされたとか、さぞかしご心配ではございましょうが、なあに若いうちはそれぐらいの元気がございませんと・・・・・・」と書くのが常識である」という手紙の上の自他の取り扱いの解説にページが割かれるのが井上らしくて印象に残ります。

 なんで「君が代」であって「君は代」じゃないのかとか、どうして人はみんな天気の話しだすんだとか(再読していて「わが国では明らかに天気予報は気象学にではなく、歳時記文学(?)に属しているのである」のくだりで飲んでいた炭酸水を吹き出しました)、役所やマスコミが「と考えられる」「とみられる」などの自然可能的な受身表現を連発するのはなぜかとか、日本が「ガイジン」恐怖症・軽蔑症のような性質を持ち続けている根底に何があるかとか、ローマ教皇庁が匙を投げるほど日本でキリスト教の布教が思わしい成果を上げなかった理由はどこにあるかとか、そういったことを考える物差しに、文法というひとつのメモリを加えて考える本書を読み進めていくと、凡庸で多忙で自意識過剰だった若い娘、つまり私にもちょっとした感覚が芽生えてきます。自分の中に沸いてくる言葉にげんなりしたり、あるいは自分の編み出す言葉に酔ってみたりしながら、自分って結構いいこと言うんじゃないかとか、自分にはそれなりに特筆すべき独自性があるんじゃないかとか、自分は超生きづらいタイプの人なんじゃないかとか、若いとき特有のオレオレオレ! という考えが、なんか全部気のせいかも、と思えてきたのです。

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