鈴木涼美 心なんてどうせ整わないからせめて言葉を整えてみる(井上ひさし『私家版 日本語文法』を読む)
自分が特別な程度には1億人のそのへんの人たちも全員特別
言語でしかものを考えることも思いのたけを表現することもできない凡人たちにとって、脳内で暴走するオリジナリティなんていうものは言葉の約束事の掌の上で暴れているに過ぎない、或いは言葉の性質がちょっとした気分を壮大な個性のように錯覚させるだけであって、若い自分が思うほど自分は大して自由な発想など持ち得ない。これはひょっとすると若者にとっては多少の落胆を持って受け止められることかもしれませんが、私はそう悲観することではないように思います。自分の没個性の発見は、他者の特別さの発見とセットになっているからです。なんだか自分は社会にすんなり馴染むタイプじゃないかもとか、私って個性的だからみんなとうまくやれないとか、こんな特別な感覚になるほど繊細な人間は世界で私だけかもとか、リア充なんてみんな爆発すればいいのにとか、若くて自意識過剰で友達付き合いがやや下手な人の脳内に必ず一度はよぎる甘い誘惑は大抵思い過ごしであって、多くがとるに足らない没個性的で平均的な人間なわけですが、そう思うに至る過程は、自分が特別な程度には1億人のそのへんの人たちも全員特別だという当然の敬意を獲得することでもあるのです。そう考えると何か特別な存在じゃなきゃと思って必死に唾液を売ったりセックスしたお金でおしゃれなホテルでアフタヌーンティーしたりしなくても心穏やかに過ごせるというものです。当然、自分が特別な人間であるという思い上がりの終わりは、優しさの獲得の始まりにもなります。
若い女の心なんてそう簡単に整うものじゃないのだから、せめて言葉を整えてみることで、少なくとも誰かを泣かせたり自傷的な遊びで疲れたりする青春はもう少し気楽なものになる気がします。逆に言えば、言葉について自覚的であればあるほど、自分の凡庸さは悲観すべきものではないということに気づき、幻の「自分らしさ」を巧みにかざして、生活の荒野を堂々と歩けるものだとも思うのです。


