鈴木涼美 死に過剰な意味と恐怖を見出すことから少し離れて生きていく(宮崎駿『風の谷のナウシカ』を読む)

最終回 半分腐った世界でナウシカになれるわけもなく(宮崎駿『風の谷のナウシカ』)
鈴木涼美

戦争を生き抜くクシャナに惹かれて

 彼の顛末を聞いた時、私はなんとなく「風の谷のナウシカ」に出てくる「庭」に重ねて想像していました。「そなたは知っている 人間の身体が素から変わってしまったことを」「汚した世界に合うように」とは、有害な空気を撒き散らす巨大な菌類の森である「腐海」の起源を知る、怪しげな庭の主の台詞です。物語の終盤、巨神兵と連れ立って墓所に向かうナウシカは、ボロボロの身体を休ませなさい、と、滅びたはずの動植物や音楽や清浄な天地が保存された綺麗な庭に誘われます。そして庭の主の言葉に「では私達は毒なしでは生きられないと・・・・・・」とこれまで信じられていた価値観が覆りますが、そこでナウシカは初めて、千年前に生まれた腐海と人との関係をはっきりと把握するに至ります。毒を吐く木々からなる腐海は、環境汚染によって偶然に発生してしまったものではなく、千年前に人の手によって作り出されたものだったこと、不毛の大地を浄化するという役目を持ち、その役目を終えたら亡びるというところまで定められていることを知り、ナウシカは安らかな清浄の地である庭を去ります。

 漫画版『風の谷のナウシカ』が完結したのは1994年です。コロナ禍でマスクだらけになった街を見て、腐海の有毒ガスのためにマスクをしているナウシカたちを思い出した人も多いかもしれません。連載中に公開されたアニメ版は、長く宮崎駿の代表作と謳われていましたが、愚かな人間による環境汚染の浄化と再生という比較的わかりやすいエコロジー思想と結末が、都会の最も汚濁に塗れた魅力に吸い寄せられていた幼い私にはそれほど馴染まず、自己犠牲的で汚い世界の淵にいてもけして穢れることのない主人公には途方もない距離感があって、漫画版を読み始めたのは随分後、まさに汚濁に塗れた世界に勇んで入っていき、そこに若干の倦怠や疲労を感じていた頃でした。巨大化した産業文明が衰退し、「火の7日間」戦争の後に有害物質を撒き散らして崩壊した都市が、再建されることなく不毛の地となって「永いたそがれの時代を人類は生きることになった」という枠組みや、巨大化した昆虫が住む「腐海」が有毒ガスを放出する様子などは共通しますが、漫画では世界観を決定づける対立軸がより複雑なものとなっています。

 エンディングやストーリー展開だけでなく、人物や戦争の設定も大きく違い、映画版では侵略してくるトルメキア軍の将という位置付けのクシャナが、漫画ではナウシカの故郷である風の谷とも同盟を結んでいる国の皇女で、辺境諸国のナウシカたちの隊を率います。王族争いによって実父や兄たちに迫害され、命まで狙われる彼女ですが、「それほど執着する王位なら血まみれのわが手で ひきむしってやる」と痺れる台詞と持ち前の強気で暴力を肯定し、兄たちより優れた戦術眼で戦争を生き抜いていきます。私は彼女のキャラクターに惹かれて、のめり込むように読み始めました。

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