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鈴木涼美 死に過剰な意味と恐怖を見出すことから少し離れて生きていく(宮崎駿『風の谷のナウシカ』を読む)

最終回 半分腐った世界でナウシカになれるわけもなく(宮崎駿『風の谷のナウシカ』)
鈴木涼美

「ナウシカにはなれずとも同じ道はいける」

 現実主義で汚れることも暴力も否定できないクシャナと、絶望することができない高潔なナウシカの関係は微妙です。メーヴェに乗って華麗に空を飛ぶ穢れなきナウシカは、「なんという戦争!! いかがわしい正義すらカケラもないなんて」とクシャナのやり方に反発しますが、汚れることを引き受けるクシャナは「手を汚すまいとするお前のいいなりになるのは不愉快だ」と、ナウシカの助言の一部を受け入れる条件に彼女に闘うことを強います。自分なりの正義の方向性を持つクシャナですが、現実味がないように見えるナウシカの高潔な精神を目の当たりにして、これまでの迷いなき汚れ方が変化するようになります。「ナウシカお前はお前の道をいくがいい それも小気味よい生き方だ」「私は私の血みどろの道をいく 親兄弟と殺し合う呪われた道をな・・・・・・」と互いの違いを尊ぶだけでなく、戦争がいよいよ進んでいくにつれ、気づけば惨状の目前で死んだ部下達の体温を悲しみ、子守歌を歌う、まさに神聖なナウシカのようなことをするようになるのです。ただし、その直後に「だが二度と私にはできぬ いや真似たくもない」「猛々しい怒りを燃やしつつ侮蔑と憎悪ではなく・・・・・・悲しむなど」と、ナウシカの精神性で自身が生きることは否定するのでやはり微妙です。

 自分の選択や選びとったものの中での足掻き方を浄化し得なかった夜の姫時代の私は、汚れを引き受けるクシャナの態度こそ美しいのだと思っていましたが、それでも漫画を読み進めるにつれてナウシカが汚れてはいけない必然性も感じました。幼い私が距離を感じた高潔すぎるナウシカは、漫画の中では一度真っ向から否定されます。意識の中に現れた「虚無」に、「足元を見ろ 自分の足元を見ろ」「死者の中にはお前が殺した者もまじっているんだ」「お前は愚かでうす汚い人間のひとりにすぎないのさ」と指摘されるのです。ただしナウシカは虚無に指摘されるまでもなく、自分が人間という呪われた種族であることを受け入れており、腐海に住み、世界を浄化する蟲の方がよほど美しいと認めます。そして一度は「わたしも森になろう・・・・・・」と生きることを諦めるような物言いになります。映画を観た時には、おじさんの妄想の中に生まれた完璧な少女としか思えなかったナウシカの高潔さや自己犠牲は、この生への執着のなさ、逆に言えば死への恐怖のなさに裏付けられたもののように思えました。

「きれい――死後の世界がこんなだって知っていたらもっと平和に生きられるのに」というナウシカの心の声が端的に示すように、ナウシカは愚かな人間の代表として死ぬことを特に恐ろしいことだと考えていません。命を捧げて世界の浄化に一役買えるのであれば、喜んで引き受ける。これは幼い私には絶対に俗人には辿り着けない自己犠牲、利他性の境地のようなものに思えていたけれど、むしろその利他性は、死への過剰な拒否反応を克服していれば必然的なものに感じられます。それは、「死にたい」なんて言葉を簡単に発する夜の歓楽街の人々とは全く異質の、むしろ真逆のメンタリティです。ナウシカの中でも「もろい人の心は深淵の前に砕けてしまう」「闇を見る者を闇もまたひとしく見るからだ」と描かれるように、人は死への過剰な意味づけから自由になったときではなく、生きることの恐怖や闇に堕ちることの恐怖から逃れたい、と考えるときに死の誘惑にかられます。

 転んだ時に心臓や頭を守る受身を取るような、本能的と言われるような自然な生への執着がなければ動物はすぐに死んでしまうわけで、死に急ぐことなく、かといって必ず訪れる死に過剰な意味と恐怖を見出すことなく生きることはあまりに難しい。けれども、人が利己的な選択をして、他者に対して過度に残酷になる時、それは必ず強い死への恐怖とセットになっている気がするのです。夜の世界に限らず、SNSで残酷な言葉が飛び交ったり、コロナ禍で誰もが他者の行動に無関心でいられなくなったり、移民や異質な他者の流入を毛嫌う人がいたりする現在の世の中を見渡すと、ナウシカの師であるユパの言葉「ナウシカにはなれずとも同じ道はいける」は、死を異物として過剰な意味を見出すことから少し離れることくらいはできるという響きを持つ気がします。

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