新書と専門書の間―"選書"とは一体何なのか!? ~『分断の克服 1989-1990』『日本の保守とリベラル』中公選書が今熱いワケ!~

あの本が売れてるワケ 若手営業社員が探ってみた 連載第12回

新書ではなくあえて選書で、という選択① ~注を入れたいから選書~

さて、板橋さんも宇野さんも、実は小社で本を出すのは初めてではありません。板橋さんは中公新書『アデナウアー』、宇野さんも同じく中公新書から『保守主義とは何か』を出されています。

なぜ今回あえて選書で出したのかについて、『分断の克服1989-1990』ではあとがきにこう記されていました。

 

"歴史研究として注は絶対に落としたくない、しかし一般の方にも広く読んでもらいたい。こうしたわたしの希望を酌んで、白戸さん(注・担当編集者)は中公選書での刊行を勧めてくださった"

 

確かに本書は巻末の「史料・参考文献一覧」と「注記」が合わせて39ページ分もついており、そのほとんどが日本語でないため、"一般の方"である?私はパラパラとめくってそっと閉じたわけですが、いくら営業だからと言って「これを減らせばページ数が減らせたのでは!?」と言うつもりはありません。というか大学時代、卒論を書くにあたってものすごく注意して注やら参考文献やらを書き加えていたのを思い出し、「逆に注がないほうが不自然なのでは...?」と思いなおしました。

 

そこでかつて中公新書の編集長もつとめ、『アデナウアー』『保守主義とは何か』も担当していた白戸編集委員に話を聞くと、「そもそも研究者にとって典拠をもって完成、とする感覚は当たり前。しかし新書の目的は一般の読者に広く伝えること。だから無理を言って新書の方では注を外すようにお願いしていた」とのこと。今でこそ注がある新書もありますが、やはり読みやすさを優先したのが新書、学術論文に近いものが選書、という言い方はできそうです。

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