平山亜佐子 断髪とパンツーー男装に見る近代史 「変成男子」「異風女」さまざまに呼ばれた江戸後期の男装者たち

第一回 江戸後期の男装
平山亜佐子

親の意向で男装――高場乱、原采蘋、佐々木留伊

 まず、明治の前史として江戸後期の男装者を見ていこう。
 この時代、仕事や生活の都合上、または親の意向で男装していた人々と、自分の意志で男装していた人々がおり、前者と後者では事情が違う。
 前者には例えば、医師で儒学者、教育者の高場乱〈たかばおさむ〉、漢詩人の原采蘋〈はらさいひん〉などがいる。
 高場乱は1831(天保2)年に黒田藩お抱えの眼科医の家に生まれるが、姉妹しかいなかったために父の意向で男として教育された。
 10歳のとき、黒田藩に名字帯刀を許され、翌年、男性の元服(成人の儀式)を行う。
 16歳で結婚するも飛び出し、「亀井塾」で学び、医師となった。
 常に男装で両刀を差し馬や牛に乗って往診する一方、高麗人参畑の隣りに「興志塾」を開き「人参畑の婆さん」と呼ばれ慕われる。
 もっとも盛況なときは300人の塾生がいたと言われ、教え子には後に玄洋社を立ち上げるアジア主義者の頭山満、政治家の中野正剛や広田弘毅、自由民権運動家で初代玄洋社社長の箱田六輔らがいた。
 なお、乱の格好を頭山満は「先生年中着物は単物、寒い時は重ね着する。帯は男のもので、白木綿の兵児帯をぐるぐる巻」「それに小倉の袴を穿き、髪は茶筅で全くの男装」(頭山満 著 吉田鞆明 記『英雄を語る』時代社、1942年)としている。
 茶筅髷とは月代を剃って長い髪を後ろでまとめて平打紐などで巻き上げて毛先を散らした髪型である。
 女性に見られるのをことさら嫌い、女性扱いをされると飛びかかって蹴倒さんばかりの怒りようで、後年とった養子にも「お父さん」と呼ばせていたという。

 原采蘋は1798(寛政10)年、九州秋月藩の儒学者の家に生まれる。
 兄も弟も身体が弱かったために父から嘱望され、漢詩の手解〈てほど〉きを受けて父の私塾で代講をつとめるまでになる。
 23歳で父とともに山口方面に、28歳で単身京都に旅して頼山陽らと交流しつつ詩作を重ねるが、旅の際に女の姿では危険だからと男装することとなる。
 父から「不許無名入故城」(名を上げるまで故郷に帰るのを許さず)との詩を贈られたため、30歳で浅草に私塾を開き、詩作や詩人との交流に励むも62歳で客死。
 家名を上げる志は半ばのまま生涯を閉じた。
 采蘋の男装姿は具体的にはわかっていないが「一個の変性男子として一生を送れり」(山田新一郎「原采蘋女史年譜稿」『大日』(244)大日社、1941年)とされ、常に太刀を差していたとも言われている。
 しかし、秘めたる恋が二回ほどあったと言われ、いずれも相手は男性である。

 また、下総古河藩の第三代藩主土井利重の家来で一刀流の剣士でもあった佐々木武太夫は一人娘留伊に剣術を教えたが、男子のないまま没したため、留伊が浅草聖天町で「武芸諸芸指南所」を開所する。
 当時の留伊の姿は「小袖一つ前に引き違え、黒ちりめんの羽織に、いづれも四つ目結び(注:佐々木家の家紋)の縫紋をつけ、髪は屋敷風のこうがいつけにかむり物を着す。金ごしらえの細身の大小を帯し、絹緒の草履をはき、素足」。
 完全な男装とも違い「異風女」とされたとか。
 また、町奉行に呼び出された際は、「とかく女にてはあれども佐々木の家を興し、男に譲り申すまでは、いつまでも男の女にて候由」と宣言。
 土井利重が見かねて家中第一の武士を留伊の婿に迎え、佐々木家再興となったという。

 乱、采蘋、留伊らは家長である父の命を受けて男装しており、内心に葛藤もあったのではないかと考える。
 だが、いやしくも士族の娘は心の内を軽々に語ることはしないため、ジェンダーアイデンティティについては今となってははっきりとはわからない。
 ただ、男装が解放ではなくある種の束縛の方向に機能したケースと言えるだろう。

 では、本人の意志で男装したとおぼしき後者の例を見てみよう。

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