平山亜佐子 断髪とパンツーー男装に見る近代史 「変成男子」「異風女」さまざまに呼ばれた江戸後期の男装者たち
「変成男子〈へんじょうなんし〉」「偽男子」
戯作者滝沢馬琴の随筆集『兎園小説余録』には「偽男子」という挿話がある。
1832(天保3)年ごろのこと。
麹町十三丁目(現四谷三栄町近辺)の蕎麦屋で担ぎ男だった吉五郎は27、8歳、月代を剃って腹掛けをし、背中から手の甲にまで金太郎小僧の彫物がある大柄な人物だったが、誰がいうともなく「偽男子なり」という噂がたち、そのうち博打うちと関係して出産に至った。
そのせいで吉五郎の評判が悪くなり、蕎麦屋の主人は暇をとらせて子供を引き取り、吉五郎は木挽町の辺り(現東銀座近辺)に引っ越したが、町奉行所に捕まって入牢した。
捕まった理由は定かではないが、一説には夫を殺して江戸に逃れて来たために男装をしていたとも。
肝心の点に謎はあるが(彫り物はいつからしていたのか?)、力仕事も厭わずにやっていたというから身を隠すための男装であったならご苦労なことである。
吉五郎が牢から出るときは小伝馬町辺りに黒山の人垣ができたという。
同じく馬琴『兎園小説余録』には「仮男子宇吉」という話もある。
京都祇園町の遊女だった宇吉は「いつの間にか」男装となり、立ち居振る舞いもまったくの男性になっていた由。
遊女らと情を通じ、間夫(遊女の情夫)になったことは一度や二度ではないが、周囲は「男女〈おとこおんな〉という事で済ませている」そうな。
宇吉と遊女の会話などは男女のカップルと変わらないという。
廓〈くるわ〉の中では姉妹分として男女の間よりも親しく交わる風習があるからそれであろうとあるが、しかし「この来書に拠って考えれば、件の宇吉は半月(性分化疾患)であろう」ともしている。
成長とともにどちらかの性にはっきり変わったことを指しているのだろうか。
実際、女児として育てられていた性分化疾患の子どもが十歳になった頃から男性として育ったある商人の一人っ子のケースも併記されている。
こうしていくつかの例をみると、彼らは「変成男子〈へんじょうなんし〉」「偽男子」といった呼ばれ方をしていることがわかる(変成男子は本来仏教語)。
また、吉五郎の例をみると噂をされたり揶揄〈やゆ〉されたりしてもいるが、男装が罪に問われてはいない。
吉五郎が捕まったのは夫殺しか何か、別の罪である。
彼らは一風変わった人と見られながら、それなりに周囲と折り合いをつけて暮らしていたことが感じ取れる。