平山亜佐子 断髪とパンツーー男装に見る近代史 もう一人の「男装の麗人」
人生を変えた男装
愛称ターキーは1931(昭和6)年11月の演目「万華鏡」でカウボーイの役で出演した際、「俺はカリフォルニア切ってのカーボーイの親分ミズノーエ、ターキーと云うものじゃ」と名乗るシーンに由来する。興行自体は不入りだったが、ファンクラブ会報誌などが愛称「ターキー(またはタアキイ)」に火をつけて広まっていった。
当時の女性ファンについて瀧子は、ハイヤーを用意してくれたり、高級な縮緬〈ちりめん〉の紋付の部屋着や座布団、宝石、菓子、花、人形、靴(「ちゃんとサイズなんか全部調べて」)などをプレゼントされたと語っている(『タアキイー水の江瀧子伝ー』)。分厚い封筒に入ったご祝儀はすべて返した。「みんなね、金くれるのは下心があるのよ。自分ちへ連れてって可愛がりたいって。(「ああ......」)それはもうミエミエだから、お金貰わないの。(「その、可愛がりたいっていうのは、わりと深い意味で?」)も、あったんでしょうね。私は、その時は考えなかったけど」と聞き手の中山千夏に話す。ご祝儀をくれるのは芸者が多かったとも。
当然ながら、瀧子の男装は職業柄であって、本人の趣味や意向ではない。しかし「水の江瀧子をめぐる同性の愛人」(『話』1934年10月号)などという覗き趣味な記事も出た。具体的な話は何もない。ただ、瀧子の数千におよぶ老若男女、貴賤貧富のファンのなかにはスポンサーもいる。なかでも麹町富士見町の待合「M」を経営するM家の姉妹は筆頭で、四谷の持ち家にタダ同然で住まわせてしょっちゅう遊びに行き、ファンレターの返事も代筆しているとあった。Mは16、7歳の頃に「白椿」というペンネームでよくファンクラブの会報誌に投書していた。
◆たき子さま 今まで抑えていた私の心を開いて投書致します。あの理智的なひとみ! そして愛らしい美しいスマイル! 誰でもひきつけずにはおかない男性的なタキシード姿! まだまだとても多くて云えない程好〈よ〉いタキコさまです。(後略)
その後、会報の編集を担当、椿千枝子として編集後記を書くようになり、瀧子への愛の詩を発表したりした。そして、瀧子の実兄がファンクラブ「水の江会」の庶務を担当した縁で、兄の明と結婚、瀧子の義姉になってしまうのだ。
「水の江会」の編集部は瀧子の自宅の一室にあった。ここに兄夫婦をはじめ編集部員が出入りし、ときには居間にも現れる。「水の江会」ではターキー浴衣から化粧品、バッグ、指輪、人形、原稿用紙などあらゆるグッズの企画販売が行われ、瀧子の日記が掲載され、ファンクラブ独自の興行「タアキイ祭り」を開催した。瀧子は神経症になった。会社も家族もファンも瀧子の男装に魅了され、人生を変えてしまった。