平山亜佐子 断髪とパンツーー男装に見る近代史 もう一人の「男装の麗人」

第十二回 もう一人の「男装の麗人」
平山亜佐子

「明朗さ」で「あやしさ」を退ける


 確かに男装の瀧子は輝いていた。これについて、中山千夏の分析は興味深い。
 瀧子の男装が魅力的なことにファンは「手を焼いている」というのだ。なぜなら、当時男装は「性的倒錯心理」であり、それを許容してしまうと少女歌劇も一段低いエンターテインメントであると認めることになるからだ。それゆえ、ターキーの持ち味である「明朗さ」がことに強調された。「女性の身体で男装をしてゐるあやしさをターキーの明朗性によつて浄化されて居る」(飛田萬里「ターキーの人気を解剖する」『タアキイ』1936年10月号)とされ、「男装」の「あやしさ」を退けた。また、プロの評論家は、瀧子の女装も魅力的であると喧伝し、男女混合の「本物のレビュー」に早く転身せよと書いた。しかし、と中山千夏は書く。なぜ同じ松竹の歌舞伎に同じことを言わないのか、と。男性が演じる女役は(あやしさも含めて)芸術なのに、その逆は倒錯とされるのはなぜか? 
 その非対称について中山はこう予想する。少女歌劇はメジャーではないから異端視されるのだと。そしてメジャーになれない理由は、大抵の恋愛ドラマは美しい女性ひとりに多種多様な男性が絡んでくるため、男性ばかりの劇団が有利になると書く。逆に女性だけの劇団で恋愛ドラマを演じるとなると男役が多種多様な男性を演じなければならず、不利であるというのだ。だから、男装の麗人を主役に据えると演目の幅が狭まってしまう。「従って、劇団としての少女歌劇は洗練の機会に恵まれず、結局、歌舞伎ほど広範な陣地を演劇世界の中に占めることはあるまい、と私は思う」。つまり、演目の幅の狭さが劇をつまらなくして一部のファンにしか受け入れられないのだという。

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