「新夕刊」創刊と、謎の社長「高源重吉」との関係(上)
「副社長」永井龍男の経営手腕
小林が「新夕刊」経営の主柱として考えたのは林房雄ではなく永井龍男だった。永井は同人雑誌「青銅時代」「山繭」からの仲間であり、文藝春秋の編集者としても経営陣としても業績を重ねていた敏腕編集者だった。芥川賞直木賞の創設から実務を担当し、戦中には満洲文藝春秋社を創設、敗戦直前には文藝春秋専務となっていた。戦後、「自分は身を退くべきだ」と考え、辞表を提出する。当座は退職金で食いつなぐつもりだった。
「その数日後同じ鎌倉に住んでいる小林秀雄が訪ねてきて、一しょに新聞をやらないかと誘われたのと、菊池寛が文藝春秋社解散の決意を表明したのは、ほとんど同時であった。小林秀雄は私の辞職のことなどなにも知らずに、林房雄も参加するから、お前は営業面を担当せよという話だった。文藝春秋に長くいたのだから、金勘定は出来るだろう位のことだったろうと思う」(永井『自伝抄』)
永井は自伝では謙遜しているが、経営者としても永井の短編小説と同じく切れ味あざやかだったようだ。「新夕刊同人」3号に、永井追悼の記事が載っている。副社長兼総務局長の永井は、「人員整理や冗費節約による、経営建て直し」役で、「一日に一度は編集局を巡回、タバコをくゆらしながら、鋭い目でじろりと一べつする姿に、居合わせた記者一同が鳴りをひそめたものである」。小林が永井に声をかけた時期ははっきりしないが、おそらく創刊前で、永井が入社するのは、文藝春秋解散が役員会で決定した昭和二十一年の三月七日以降であろう。永井は役員会で、「菊池寛がはじめた雑誌を、菊池寛が止めるという。それには従わざるを得ない」と発言した。菊池社長に殉じたのだ。その菊池寛はある日、新夕刊に突然立ち寄る。「副社長室」という木札を見て、「ふーん、君はえらいんだね」という菊池に、永井はすっかり恐縮してしまう。永井と小林の二人にとって、菊池寛は文学上のというより、人生上の「恩師」だった。