「新夕刊」創刊と、謎の社長「高源重吉」との関係(上)
林・永井・小林の三人体制で編輯
田河は毎日通勤したと書いているが、横山隆一は週に三日、鎌倉から浜松町の「新夕刊」に通った。「新夕刊」創刊十日目の一月三十日に、横須賀線で作家の高見順が横山に会っている。高見順は日記に横山が「月水金と出ている」ことと、林房雄、永井龍男、小林秀雄の三人が「交替で編輯に当っている由」と記した。これはなかなか貴重な同時代記録である。まだ文藝春秋に籍と席がある永井も、すでに参画していたようだからだ。林房雄は主のような顔をして、焼けビルに陣取り、連載小説「西郷隆盛」を執筆していたから当然として、林・永井・小林の三人体制がここで敷かれている。高見日記の記述には、「小林秀雄(川端さんが会ったときは、小林はお膳立てだけして、もう抜けたといったというが)」とある。高見は川端康成に一月二十日に会っているので、その時、川端から聞いた小林の直話では「お膳立て」役のつもりだった。いざスタートすると、そうも言ってはいられなかったのだろう。小林としては準備中の「文学季刊雑誌」があくまでも主戦場ではあるにしても。
横山隆一は「新夕刊」については、何度も回想を書いている。とても愉しい時代だったようだ。「私の履歴書」(「日本経済新聞」昭和46・12・4~31)では、腎臓病で寝込んでいるところに永井と小林が訪ねてきたのが始まりだ。
「そして自分たちが新聞を作るから、君も、病気がなおったら参加してほしいという話でした。その年の暮れ近くなって、私もすっかり元気になったので、新しい新聞社へ顔を出しました。戦後東京へ出たのははじめてで、見渡す限り焼け野原になっているのを見て、感無量で寒い北風に吹かれながら、いつまでも立ちつくしていました。新橋の青空マーケットへ行ってみました。カストリというやつを一杯ひっかけてみました。それまで、ひる酒というのはやったことはありませんが、やはりそのころは、心が多少すさんでいたようです。/新聞社の私の職名は、参与ということでした」
横山は連載漫画「ノラ子」を書くだけでなく、初代写真部長をやり、時には社説まで書いた。「自由な、あまりにも自由な新聞で(間違えてはいけません、我々が自由だという意味で、休んでもいいし、内職してもおこられない自由でございます)新聞の名前[新夕刊]も私達が考えたのです」(横山『第二・でんすけ随筆』)。永井副社長はこの「自由」の引き締めにかかったのだろう。