四大卒も中小企業を目指せばいい

海老原嗣生(株式会社ニッチモ代表取締役)

なぜ企業は「学歴」を見るのか

 ここからは少し角度を変えて、企業が、大学生について本音ではどのような見方をしているかを紹介していこう。
 まず「最近の大学生は勉強しなくなった。アカデミックな知識はないし、就職後にすぐ使える技能も学んでいない。日本の大学は良い人材を輩出できていない」という話がある。こうした話は、太古の昔から続く年輩者による「最近の若い者はだらしない」というお説教の派生形として聞き流せばよいのだが、こと企業就職と大学の授業内容の問題に入り込んでくると、大学側の迷走につながる恐れがあるので、しっかりと事実を整理しておきたい。
 まず確認したいのは、大学での勉強は社会に出たらまったく使いものにならないということだ。結局、サラリーマンになれば、七割は営業職に就く。営業の現場ではマクロ経済学も法律論も使わない。だから大学生が大学で真面目に勉強していようが、遊んでばかりいようが、企業にとっては関心がない。これは戦後、サラリーマン社会が確立してから、本音ベースではずっと変わらない事実なのである。

 では、なぜ企業は「学歴」を気にするのか。実際、企業は偏差値の高い大学を卒業した学生を欲しがる。最近の企業は、世の中の人が思っているよりも、採用にシビアである。「ラクだから」といった手抜きで採用者を決めることは絶対にないと言い切れる。その上で、日本の多くの企業が「学歴」を重視するのは、そこに合理的な理由があったからだ。
 偏差値の高い大学に入れる人には、三つのタイプがいる。まずは、「すごく頭のいい人」。こういう人は、厖大な資料やデータを扱う研究やマーケティング、あるいは新規事業の立ち上げといった、複雑な仕事に取り組む人材として期待できる。

 それから、「要領のいい人」。頭の回転はそこそこでも、物事のツボを把握する力があるので、効率の良い勉強ができる。こうした力は会社に入っても有効で、営業をやらせてもうまい場合が多い。

 三つ目のタイプが、「継続学習能力がある人」だ。敷かれたレールの上を、黙々と進んでいける人。こうした「上の言うことを忠実に守る人」が一定の割合でいることは、経営管理上とても意味のあることである。

 つまり、偏差値の高い大学に入る人間とは、この三つのタイプのうちの、どれかに属している。企業からすれば、この三つのタイプのどれかであれば、人材として使えるということだ。企業が見ているのは、大学で難しい学問を学んだかどうかではない。学生がこれらのタイプのいずれかに属しているか、属していないかを見ているのである。

 だから、一万人も入社希望者があるような大企業は、まず学歴で一〇〇〇人前後に絞る。どうせ最終的に採用するのは三〇〜四〇人ならば、とりあえず一〇〇〇人に絞ってそれから各人の人格なども要素に組み込んで選考に入ったとしても、十分に人材多様性を確保できるというわけだ。

企業が大学に求めるもの

 では大学の四年間とは何なのか。学生が、今述べたような「頭がいいのか」「要領がいいのか」「継続力があるのか」という三つのタイプかどうかは、大学入試の段階で判明してしまう。もし本当にそれだけで企業の採用不採用が決まるのならば、センター試験の結果を使って採用を決めればいいということになる。大学の存在価値とは何なのだろうか。

 私は大学で学ぶアカデミズムにも二つの種類があると考えている。

 一つは、学者になるための勉強だ。とにかく一つのテーマを突き詰めて、徹底的な専門性を身につけていく。これは「普通の人」が社会で使える可能性は低いが、社会全体の文明レベルを上げるために、「図抜けた優秀者」が取り組む高度に専門的な勉強だ。

 もう一つは、物事を考える能力を学ぶことだ。たとえば、一つの命題が正しいのかどうかを判断するためにはどのような事例を集めればいいのか、どのような角度から検証すればいいのか、といったことを勉強する。こうした「本当の意味で物を考える力」は社会に出ても使える。営業するにも、企画を考えるにも、必要なデータを集めてきて、それを読み取り、相手の理解度を予測した上でわかりやすく説明するといった力は必要である。

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 大学の抱える問題は、「学生が勉強しないこと」ではない。そもそもの教育内容が、「学者になるための勉強」であるか(もちろん超高偏差値大学はそれでいい)、あるいは高校までの延長で、教師から言われるままに事実を暗記したり、決められたパターンに従って論文を書いたりしているということだ。確かに小・中・高校と比べてレベルの高いことに取り組んでいるのかもしれないが、結局、社会科で学んだ知識は社会科のテストで解答する、理科の知識は理科のテストで解答するという学校特有の世界から抜け出せていない。しかし、社会に出れば、科目ごとにテストがあるわけではない。自分の知識を垣根なくフル動員して、目の前の問題に立ち向かうことが求められる。こうした練習こそ大学でなされるべきだろう。

教養学部を「補習の府」に

 ただこの「物を考える力」を身につけさせる教育はことのほか難しい。現在の学習指導要領は、現場の教師の八五%が実践できるものという基準で教育内容が決められているそうだが、今述べたような本当の意味でのリベラルアーツ教育は、八五%どころか、反対の一五%ほどの教師しかできないように思う。

 そこで最後に私の考える必要最低限、これだけのことを大学が学生に教えておいてくれれば、大学にとっても、学生にとっても、社会にとってもプラスになるに違いない、というプログラムを提言しておきたい。

 まずは大学一、二年の教養学部を「補習の府」と割り切ってしまうことだ。そして算数と国語、日本地理や世界地理といった、小学生・中学生レベルの基礎教養をもう一度やり直す。

 残りの二年は、簿記やビジネス英語、マーケティング、「給与・社会保険・年金計算」といった社会に出てすぐ使える学問を教える。もちろん専門学校と差別化する意味で、スキル教育ではなく、アカデミズム教育で教える。つまり暗記ではなくて、物事を多面的に考えるための教材として教えるわけだ。

 さらに、三年生か四年生では、二ヵ月ほどの長めのインターンシップを学生に体験させる。または、寄附講座で企業の人に来てもらうのでもよい。この科目を通して社会人としてのコミュニケーション方法を学ぶ。コミュニケーション能力というと、立て板に水で自分の意見をまくしたてる能力といったイメージがあるが、芸人になるわけではないのだから、きちんと相手の話を聴けて、ゆっくりでもいいから自分の言いたいことを論理的に語ることができればいい。その練習をする。

 今の「就活のプロ」と呼ばれる人たちは、「グループ・ディスカッションをするときは班長を目指しなさい」「話すときは結論を最初に言いなさい」といったワンパターンの教え方をする。だけど、企業はそんなことで学生を判断したりはしない。企業が見ているのは、「その人が自分たちの会社に合っているかどうか」だ。就職活動は、就職偏差値の高い人ならどこの企業でも受かるというものではない。たとえば、メーカー系は、むしろ口下手が好まれる。口下手だけど、ちゃんとPDCAサイクル(計画→実行→評価→改善)が回せる人。商社なら、押し出しの強い人。リクルートなら、「俺が、俺が」という人。そして、リクルートに受かる人は、往々にしてメーカーには受からない。そう、合うか合わないか、だ。

 企業は真剣に人材を見極めようとしている。だからこそ、たとえ面接で緊張して言葉が詰まったからといって、その人の人柄が社風に合っていて、話の論理構成がしっかりしていれば、採用する。そういうこともインターン体験を通して社会人と触れていれば、肌感覚として身につくはずだ。

 誰かを批判したり、状況を悲観的に解説したままで終わりにするのは、私の流儀には合わない。だから限られた紙幅のなかで自分なりの処方箋を盛り込んだつもりである。もし、私のプランがどこかの大学で採用されて、「大学に活気が出てきた」とか、「卒業生が良い企業と巡り会えた」という話につながることがあれば、望外の喜びである。

(了)

〔『中央公論』2011年2月号より〕

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