3・11と9・11 「断絶」の思考、「永続」の意志
誰が始めたのか分からないが、いつの間にか東日本大震災の日を3・11と呼ぶようになった。9・11の連想なのだろうか。そうだとすれば、それはどんな連想なのか。
9・11テロ直後の英誌『エコノミスト』(九月十三日号)の表紙が、まぶたの裏に焼き付いている。崩れ落ちて噴煙を高く上げるニューヨークの世界貿易センタービルの写真。その上に大きく「世界が変わった日」とだけ書かれていた。世界の知識人によく読まれている雑誌による9・11のこの定義は、その後広く使われた。『エコノミスト』誌を手に取るような知識人らの言説を通して、人々は「あの日を境にして、世界は変わった」という意識を共有していった。
3・11という表現は、おそらく同じような意識の上に立っているのだろう。「断絶」の意識だ。一切がそこで「区切られて、変わってしまった」という悲哀、あるいは「区切られるべきだ」という希求の意識だ。
近現代史を振り返ると、日付の数字だけで呼ぶ大事件がいくつもある。2・26、陸軍皇道派が起こしたクーデター未遂の日だ。植民地時代の朝鮮半島で起きた3・1独立運動。8・15、終戦の日もそうだ。洋の東西を問わず、そうした日は「あの日を境に変わった」という意識に支えられて、数字で呼ばれている。そう仮定できる。
日本の3・11と、今年でちょうど一〇年目となるアメリカの9・11。それらの日付を境に、どのような「断絶」の意識が生まれ、どんな思考の変化が起きたのか。あるいは日本の場合、起きそうなのか。考えてみたい。
その前に、日本の近代史の中で、3・11以前の最も大きな「断絶」の意識の日である、8・15について少し考えてみる。
丸山眞男と川端康成
8・15は終戦の日だ。アジア太平洋戦争はこの日で終わった。この日を境に日本は大きく変わることになった。だから歴史を区切るように、8・15という日付の数字で呼ぶ。
法的にみれば、この日が終戦の日かどうか疑わしい。米英など連合国が日本に降伏を求めたポツダム宣言受諾は一九四五年八月十四日だし、米戦艦ミズーリ号上での降伏文書調印は九月二日だ。だが、人々の意識の中では、抜けるような夏空の中の昭和天皇の玉音放送をもって、時代は区切られた。
近現代における時代の区切りは、制度上で国のかたちが変わったりすることと必ずしもシンクロしてはいないようだ。むしろ、強烈なメディア的出来事を通じて、イメージや言葉が人々に強いインパクトを与え、そこでパラダイム転換が意識されることがある。すなわち「断絶」が起きたという意識が生まれる。玉音放送は、そうしたパラダイム転換の意識をつくるメディア・イベントだった。
玉音放送で起きた意識のパラダイム転換は、その後実際に起きるさまざまな変化(憲法改正など)によって現実へと固められていくのだが、さらにもっと重要なのは知識人の言説に影響されての人々の思考の変化だ。
8・15を「断絶」の日と考える思想を代表するのは、おそらく丸山眞男だ。丸山は終戦翌年の三月に執筆した有名な論文「超国家主義の論理と心理」で戦前の体制に強く反省を迫って、次のように書いた。「日本軍国主義に終止符が打たれた八・一五の日はまた同時に......国体がその絶対性を喪失し今や始めて自由なる主体となった日本国民にその運命を委ねた日でもあったのである」。丸山は正しいのか。おそらく、彼の言う「国体の絶対性喪失......」は半ば事実であるが、期待であり、希望だと言ってもいい。「そうあるべきだ」という思想だ。
そうではない考え方もある。その代表的な一人は小林秀雄だろう。終戦後しばらくたっての座談会で小林は戦時中の態度を聞かれ「僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいぢゃないか」と語った。開き直りのようにも聞こえるが、のちに小林自身が明らかにしたように、彼は思想の「連続」ということにこだわった。
小林の場合は論争的だが、しずかに「断絶」を拒み、「永続」を誓った例もある。川端康成の場合がその典型だろう。
終戦翌々日の八月十七日、川端は鎌倉の病院でその夜に死んだ作家、島木健作の亡きがらを自宅まで担架で運ぶのに付き添う。そして追悼文に言う。「私はもう死んだ者として、あはれな日本の美しさのほかのことは、これから一行も書かうとは思はない」。それから二年五ヵ月後、今度は二五年来の盟友、横光利一を失った。「君の骨もまた国やぶれて砕けたものである......僕は日本の山河を魂として君の後を生きていく」。そう弔辞で言う。島木の死の時と同じ決意だ。
丸山や川端を代表的な例に、「断絶」と「永続」の思想がせめぎ合っていく。それが8・15以降の言説空間だといっていいのではないか。
同じようなことが、アメリカの9・11の後に起きた。そして、東日本大震災後という時空にいる日本人にも起きる。そのように想定できる。