医療ボランティアとして被災地に入って

斎藤環(精神科医)

被災地にて

 七月初旬、私は医師である妻とともに、郷里でもある岩手県の被災地へ向かった。例年は九月にとる夏期休暇を前倒しして、医療ボランティアに参加するためだ。

 被災直後に向かいたいのはやまやまだったのだが、当の私の自宅(水戸市)も軽微ながら震災で損壊するなどして、心情的にも時間的にも余裕がなかった。平日の住まいである千葉のマンションも、床に散乱した大量の本や書類を片付けるいとまもなく、震災関連の仕事が次々と押し寄せた。さいわい身内を被災で亡くすことこそなかったが、私自身の身辺が落ち着くまでに、しょうしょう手間取ってしまったのだ。

 一六年前、阪神・淡路大震災のおりにも、震災から半年後の六月に一週間ほど医療ボランティアに参加したことがある。二四時間体制の電話相談の交代要員としてだったのだが、そんな時期にも電話はけっこう頻繁にかかっていた。おそらく四ヵ月後の被災地には、被災直後とはまた異なったニーズがあるのではないか。

 知人を通じて岩手県精神保健福祉センターの黒澤美枝所長を紹介してもらい、センターからの指示でボランティアに参加することになった。黒澤氏によれば、もはや人手や物資が不足する段階は終わり、私にはむしろ広報活動をお願いしたい、とのことだった。

 早い時期からこの地でボランティア活動に参加していた知人編集者の助言もあって、宿泊先は遠野のホテルに決めた。沿岸部のホテルはまだほとんどが営業を再開していなかったのだ。

 むろん当初は寝袋持参で避難所に泊まるくらいの意気込みだった(一六年前の神戸ではそうした)が、それだけはやめてくれとの現地の要請にしたがった。どうやら実際に避難所生活をした医師の中には、次第に苛立ちや怒りっぽさを示すような人もいて苦労したらしい。さもありなん、と感じ入るとともに、いつでも帰れる医師ですらそんなことになるのなら、もう四ヵ月も避難所生活を強いられている被災者のストレスはいかばかりか、とも思われた。

 遠野は美しい町である。岩手出身でありながら、訪問するのははじめてだった。ここは広大な岩手県の沿岸部と中心部を結ぶハブ的な位置にあり、現在も多くのボランティアや新聞記者が拠点としている。ほとんど被災のあとが見えない閑静な町並み、北上山地に囲まれた広大な田園に点在するホップ畑が美しい。それにしても、河原を飛ぶ蛍を見たのは、何年ぶりのことだったろうか。

 私たちは毎朝、遠野のホテルからレンタカーで釜石市に通った。四年前に開通した仙人峠道路のおかげで、遠野から釜石までは、わずか四〇分ほどで到着する。仙人峠のトンネルを越えれば風景はがらりと変わる。至る所に積み上げられた瓦礫の山だ。平和な農村風景と瓦礫とのギャップにはいつまで経っても慣れることができなかった。

 メールで翌日の行き先を伝えられ、釜石保健所でオリエンテーションを受けて大槌町や宮古市へ向かう。まだあちこちに瓦礫が積み上げられ、商店街のシャッターはめくれ上がり、生々しい津波の爪痕が至る所に見える。しかし、震災直後に道路上の瓦礫だけは最優先で撤去されたとのことで、メインストリートから裏通りに至るまで通行止めの箇所はほとんどなく、車での移動はきわめてスムーズだった。

 人や物資の移動を考える上で、交通網の回復を最優先にした判断は賢明だった。インフラ復旧に際しては、ライフライン、通信、そして道路は最優先事項と言いうるだろう。救急処置に際しては、まずなによりも呼吸と循環の確保が重要であることと同じことだ。

 岩手県の精神保健福祉センターからの指示で私が担当したのは、保健所や学校、児童相談所のケース相談や避難所の巡回診療だった。現地ばかりではなく内陸の避難先である花巻や遠野の相談にも赴いた。

PTSDはどこに?

 被災地での「こころのケア」と言えば、多くの人はPTSDの治療をイメージするであろう。しかし、すでに多くの指摘があるように、東北の被災地で典型的なPTSD事例に出会うことはまれだった。少なくとも私は一例も診ていない。関わった事例数がそれほど多くないということもあるだろうが、次のような指摘もある。

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