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医療ボランティアとして被災地に入って

斎藤環(精神科医)

 兵庫県こころのケアセンターの臨床心理士・大澤智子は、四月から五月にかけて被災地での支援活動に参加した経験を書いている。大澤によれば「専門家としての仕事はほとんどなかったと言っても過言ではない」という。医療ニーズは多数あったが、「『こころのケア』というものは、被災者の多くにとって、あまり『関わりたく〔ない〕もの』というのが現実だった」とまで書いている。避難所を廻っても、「実際に私たちがどんなチームであるかを知ると、『私には関係ない』と言わんばかりに、蜘蛛の子を散らすようにどこかに行って」しまうのだという(大澤智子「あらゆることが『こころのケア』になりうる」『現代思想臨時増刊 imago 東日本大震災と〈こころ〉のゆくえ』青土社)。

 もっとも、私はやや異なった印象を持っている。問題はいわゆる「東北人のガマン強さ」なのだ。もちろんこうした「ガマン強さ」は、相当程度、見かけ上の印象であって、その内実については単純に「強さ」とばかりも言えない。私自身が東北出身であることをふまえて言えば、むろん地域差もあるだろうが、東北人は内面の自己開示を潔しとしない感覚がある。単純な「恥」の感覚でもないし、メンタルヘルスに関わることのスティグマ性という問題(ないわけではないが)ばかりでもない。

 これは野田文隆の指摘する「苦悩の慣用表現」の違い、というものなのかもしれない(「災害と文化――こころ揺らぐ人々」内橋克人編『大震災のなかで――私たちは何をすべきか』岩波新書)。そう、誰もがトラウマをトラウマとして認識し表現できるわけではない。それは身体化を始めとする隠喩的、間接的表現をとる場合もあれば、ゆっくりと時間をかけて表現される場合もあるだろう。

 その意味でしばしば聞かれた言葉は「もっと大変な人がいっぱいいるから」というものだった。

 自分よりも苦しんでいる人、大変な目にあった人が苦しさを口にしていないのだから、自分程度の苦痛を誰かに訴えるべきではない。現地で支配的であったのは、こうした感情だったように思われる。

 しかし私の見るところでは、これは苦痛を表現・聴取するさいの「形式」ないし「作法」の問題であるように思われる。先ほどの「慣用表現」につながる話だ。

 確かに避難所を廻りながら、いきなり「何か心配はないですか」と尋ねても、みな「大丈夫です」としか言わない。そこで私は、ほぼ全員の血圧を測ることにした。さいわい「血圧測りましょうか」という申し出が断られることはほぼなかった。

 持参したのは指や手首で測定できる簡易血圧計ではなく、マンシェットと聴診器を用いる本格的な血圧計だ。相手の体に触れながら、睡眠や食事について尋ね、避難所生活について聞き、いつごろ仮設住宅に移れそうかなどと尋ねていくと、だんだん口がほぐれてくる。「実はこんなことが辛かった」という話が出てくる。あるいは家族の相談をしているうちに、自分自身の苦痛や辛さに話が及ぶことも珍しくなかった。中には「また来てもらえるのか」と尋ねた方もいた。決して苦痛を相談したくないわけではないのだ。

 ちなみに、血圧測定は「作法」としての意味があったばかりではない。現に多くの人が高血圧になっていた。明らかに避難所という劣悪な環境下での生活が長期化することによるストレスであろう。暑さのみならず、大量発生した蝿、瓦礫から漂う異臭、プライバシーもなく入浴も自由にならない集団生活、そして意外に指摘されていないのが遮光の問題である。窓際に近い場所では、カーテンによる遮光が不十分なため、早朝から朝日が照りつけて睡眠不足に拍車をかけている。この環境では確かに「こころのケア」は後回しになるだろう。

 もっとも、言うまでもないことだが「こころのケア」のニーズは確実にある。私はそう確信している。しかし、その支援モデルについては工夫が必要だ。ただ窓口を作って待機していても誰もやってこない。こちらからアウトリーチをかけていく必要がある。聴取する際には、身体ケアや家族相談、場合によっては法律相談などといった、間接的な手続きが必要となる。

 深刻な相談を受けた場合は、決してそれきりにすべきではない。同じスタッフが繰り返し話を聞くか、他のスタッフに正確に引き継ぐか、専門機関に紹介するといった手続きは必須である。そこには「苦悩を開示させてしまった立場」の責任というものがあるのだ。切開だけして縫合しない外科医が存在しないように、フォローアップやアフターケアは必須と考えるべきである。

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