日本ほど盗みやすい国はない

アメリカの情報も取り放題
小谷賢(防衛省防衛研究所戦史研究センター主任研究官)×黒井文太郎(ジャーナリスト)

小谷 昨年八月、「秘密保全のための法制の在り方に関する有識者会議」が、秘密保全の報告書をまとめて、当時の菅直人首相に提出しました。その後、日弁連が反対の趣意書を出しましたが、その内容は、「国民が知るべき情報が国民の目から隠されてしまう懸念がきわめて大きい」と。確かに時の政権が秘密保護法を恣意的に使うようなことがあってはなりませんが、国民の知る権利については二〇〇一年から施行されているいわゆる「情報公開法」で保障されていますし、国民が国の情報すべてを知らなければならないというのは極論だと思います。この手の問題は主観的に議論されがちで、ちっとも前に進まない。

黒井 僕自身はマスコミ側の人間なので、取材対象として機密情報も扱いますし、日常的に外国大使館員や正体不明の外国人も取材しますから、下手したら僕自身が摘発の対象になりかねないという微妙な立場ではあるのですが(笑)、それでも秘密保全法は最低限必要だと思います。

小谷 民主党内部で秘密保全法の検討が進められるきっかけになったのは、二年前に起こった中国漁船衝突事件の動画流出です。あのとき盛り上がり、今回の事件でまた盛り上がるのかと思いきや、早くも忘れ去られつつあります。
 理由は定かではありませんが、民主党内で検討されていた法案自体も今年三月には国会提出を見送られました。

黒井 公務員には守秘義務があります。国家公務員がそれに反したら、「五〇万円以下の罰金」。

小谷 それもようやく「三万円」から引き上げられた。

黒井 ン千万で買ってくれるなら、売っちゃおうと思いますよね(笑)。外国なら終身刑のはずが、五〇万円のペナルティで済むのだから。しかも、大臣や国会議員などの特別職公務員にはペナルティすらない。

小谷 それが実情です。

「スパイ天国」の実像

黒井 そんな状況もあって、日本は「スパイ天国」の名をほしいままにしています。けれどもそれは、何をやっても恐くないという意味での「天国」であって、外国のスパイが大集結しているわけではない。ワシントンや北京や中東のテヘランとかテルアビブとか、石を投げればインテリジェンス関係者に当たるような場所に比べると、東京のプライオリティはそんなに高くはありません。それはすなわち、日本が「政治大国」ではないからなんですが。

小谷 なるほど。

黒井 ただそれでも、一般の方が想像する以上に、いろんなところからスパイ、インテリジェンス関係者が送り込まれてきているのは確かです。
 外国のスパイをざっくり分類すると、インテリジェンス機関の「正社員」である駐在員と、業界用語で「エージェント」と呼ばれる、いわば「現地契約社員」みたいな人がいるのですが、日本に潜む「正社員」は、おそらくアメリカが一番多い。

小谷 そうでしょうね。

黒井 全部合わせたら数百人規模になるのではないでしょうか。彼らは日本をベースにして、基本的に中国やロシア、北朝鮮の情報を取ろうと活動しています。一方、ロシアは数十人で、昔ながらのスパイ工作を飽かずにやっているというのが、僕の印象。自衛隊関係者とか新聞記者とか企業エンジニアとか、とにかく彼らの役に立ちそうな人間のところに行って、取り込みの工作をするわけです。で、時々事件化するのですが、実はそんなにびっくりするような情報が漏れているわけでもないようです。

小谷 もちろん、彼らの一番欲しいのはアメリカの情報です。ただロシアの場合は、プーチン大統領がそうであったように、軍やインテリジェンスで活躍することが、政治や行政の権力入りに最も近いルートですからね。日本での活動は、そういう、いわばキャリアパスの意味合いも強いのではないでしょうか。

黒井 北朝鮮は、秘密工作員方式がメイン。在日朝鮮人が工作員の場合もあれば、工作船でやってきて、誰かの身分を盗んで日本人になりすまし、スパイ網を築き上げたケースもあります。かつてはそんな工作員がパートタイムも入れて数百人、末端の協力者は数千人にも及んだようですが、今ではみな高齢化し、数も相当減ったようです。

小谷 その他で多くのインテリジェンス関係者を日本に派遣している国を挙げるとしたら、イギリスとかイスラエルとか。

黒井 韓国、台湾、オーストラリア、ニュージーランド、イランもいますね。まあ、あとは人数をかけてはいないものの、ほぼすべての大使館に各国のインテリジェンス機関に所属する人間がいます。内閣情報調査室国際部門、警察庁警備局外事情報部、公安調査庁調査第二部などは、友好国のインテリジェンス機関の駐日要員とは定期的に会合をもっています。

小谷 インテリジェンス関係者がメディアの記者に扮していることも、結構多いのです。インテリジェンスの研究をやっていてよく聞くのは、情報機関に入って、その後、外交官やジャーナリストの肩書で外国に派遣されるケースがとても多いということです。

黒井 ロシアや中国なんかも、インテリジェンス機関とメディアが一体化してます。かつてはタス通信や新華社通信なんて、特派員の半分以上が諜報機関員だったといわれていました。

小谷 だから中国にいる日本の新聞記者は、残らずスパイだと思われているのです。自分たちがやっているのだから、こいつらも盗みに来ているのに違いない、と。(笑)

排除したくてもできない現実

黒井 インテリジェンスの分野においても、日本にとっての最大の脅威が中国であることは明白です。すでに相当の被害を被っていると見なければなりませんね。

小谷 民間の技術情報が、どれほど流出したことか。累計すれば、日本企業はとてつもない損害を被っているはず。

黒井 ハイテクエンジニアだけでなく、例えば金融機関やシンクタンクの関係者だとかのところに、中国のネットワークが入り込み、根を下ろしている。そこを経由して、すさまじい量の情報が、今この瞬間にも抜かれているのでしょう。
 深刻なのは、もはやそれを止めるのが絶望的に困難なことです。今になって、「企業から問題がある中国人を洗い出して排除せよ」と言えるのか。そもそも、排除したら日本の経済が成り立たないかもしれない。

小谷 脅威は情報を抜かれることだけではありません。中国が長期的視点に立って日本社会に浸透させた「親中派」の人たちが、徐々に影響力を持つようになる可能性は否定できない。
 例えば中国の息のかかった学者がオピニオンリーダーになって、世論に影響を与える。「歴史的に見て尖閣諸島は中国の領土である」なんていう主張が大勢を占めるようになっていくというような事態が起こらない保証は、はたしてあるでしょうか。

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