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苅谷剛彦 オックスフォードからの提唱 教育デジタル化の落とし穴

苅谷剛彦(オックスフォード大学教授)
 二〇二〇年という年が歴史に刻まれることは間違いない。新型コロナウイルスのパンデミックはそれに直面した人類の生き方まで変える影響を残しつつある。少しずつ知識が蓄積されてきてはいるものの、これだけの規模で、未知なるものと対峙し、不確実性が世界を覆ったこと、そして医学や疫学の面に限らず、社会的な現象まで含め、「無知の知」─私なりに言い換えれば、知の限界を知ること、知に謙虚であること─を思い知らされたことは、近時なかった。
 この経験は、知の生産、再生産に直接関わり、責任を負う大学にとっても、大げさに言えばその存在理由が問われるほどのショックを与えたと私は理解している。
 ではそのようなショックに日本の大学はいかに応えたのか。そこからどのような問題が見えてきたのか。この小論では、こうした問いに答えていきたい。

コロナ禍で見えてきたこと  

 それ以前の教育段階に比べ、大学教育について語ることは格段に難しい。なぜなら、大学と言っても多種多様だからだ。専門分野による違いはもちろん、入学難易度によって大学ごとの学生の基礎学力も違う。卒業後の進路にも大きな違いがある。女子大のようにジェンダーの違いを顕著にする例も、地域性による違いもある。これらの差異を無視して、一括りに「大学」教育として議論することには十分な注意が必要だ。  その点を考慮しつつも、大きく捉えれば、今回のコロナ禍に直面する中で見えてきた日本の大学教育(ここでは学部レベルを念頭に置く)の特徴を挙げることはできる。

 第一に、これはすでに長年指摘されてきた点だが、日本の大学教育の特徴は「広く浅く」学ぶことにある。今から三〇年近く前に私自身の著書の中で指摘したのは、アメリカの大学と比べ日本の大学教育は、多くの科目を履修し、しかもそのほとんどが講義形式による授業であるといった特徴を示している点であった(『アメリカの大学・ニッポンの大学』一九九二年〔中公新書ラクレ版、二〇一二年〕)。文献講読を行うゼミのような授業や、実験、実習といった授業もあるが、学生の大多数(多くは文系学部に所属)は、事前の準備や負担が少ない講義形式の授業を数多く履修し、卒業していく。卒業論文や卒業研究を必修とする大学・学部もあるが、その比率は減少傾向にあるとも言われている。  多種多様な講義形式の授業を「広く浅く」履修させる日本の大学教育は、知識伝達の効率性という点で優れている。大規模私立大学では数百人を収容する講義室で行われる授業も少なくない。コストの面で見れば知識伝達という点においてきわめてパフォーマンスが高い。拙著『追いついた近代消えた近代』(岩波書店、二〇一九年)で明らかにした、日本の「後発型近代」が色濃く刻印された結果である。  

 この第一の特徴においては、コロナ禍に直面し、多くの大学が取り入れたリモートによる授業の提供が大きな問題を起こすことは少なかった。もちろん学生たちのメディア環境の違いから、教室で行うのと同じレベルの知識伝達が行われたかどうかには問題はあっただろう。それでも、リアルタイムであれ、録画方式であれ、教師がほぼ一方的に伝達する講義形式であれば、それが同じ場所と時間を共有していなくても情報の劣化を経験することなく授業は成立する。講義のように一方的に教師が「話す」授業では、リモートによる授業は、教室という空間の制約や時間割という時間的制約を受けない等、より効率的だとも言えるだろう。そのことに気づいた大学も少なくないのではないか。  

 第二に、それよりは人数の少ない、いわゆるゼミと呼ばれる方式の授業においても、リアルタイムで行われるオンラインの授業がうまくいく可能性は高い。ZoomやTeamsのようなオンライン会議ツールを使う場合には、参加者の顔や名前が画面に出ることから、教師にとっても学生同士にとっても、対面よりかえってコミュニケーションがしやすいという声も聞く。全員で読む文献が決まっているような日本のゼミ形式では、発表者が画面共有をすることで講読文献についての要約やコメントを行い、それをもとに教師が発問したり、学生同士で意見を言い合ったりする。このようなことも、オンラインで十分可能だ。一つの、共通の文献をみんなで読み、それをもとに議論する授業であれば、コミュニケーションの劣化はさほど起きない。  だが、「広く浅く」を特徴とする日本の多くの大学にとって、読むことや書くことにもっと負荷をかけた教育を行うのは、あまり得意ではない。私が今回出版した『コロナ後の教育へ』(中公新書ラクレ、二〇二〇年)やそれ以前の著書(苅谷・石澤麻子『教え学ぶ技術』ちくま新書、二〇一九年など)でも紹介したが、オックスフォード大学で行われているような、多くの課題文献を読みこなし、そこで得られた知識をもとに、かなり長い論文(A4判で一〇枚前後)を毎週書くような課題のもとで、argument(根拠を示した上での自分なりの分析やその結果に基づく自分の考えの表明)を行う教育に比べると、日本の大学はまだまだ学生に求める学習の負荷が小さい。オックスフォードほどの量ではないにせよ、日本の大学よりはるかに多い文献講読を要求した上で、授業に参加することを求めるアメリカの大学と比べても同様である。  

 しかも、ゼミと呼ばれる少人数の授業でさえ、日本の多くの大学では二〇名を超えるような環境である。学生同士が意見を言い合う「アクティブラーニング」が推奨されているとはいえ、多読を前提にする授業にはなっていない。一週間に十数コマの異なる授業をとる、しかも大人数の授業が多いこのような構造では、学生にとっても、「多くを読み、多くを書く」といった(欧米のトップレベルの大学では普通に行われている)授業は、学生にとっても教師にとっても難しい。  

 この点で、吉見俊哉氏と共著で出版した『大学はもう死んでいる?』(集英社新書、二〇二〇年)の中で吉見氏が提案した、一科目あたりの単位数を増やすという案は検討に値する。そうすることで、授業の少人数化と、それぞれの授業が週に複数回(四単位であれば二回、六単位の授業なら三回)できるように転換しようというアイデアだ。講義での授業の人数は減らさないが、週二回の授業のうち一回、あるいは週三回のうち二回を少人数のグループに分け、そこに大学院生などのTA(Teaching Assistant、教育補助員)によるディスカッションを中心とした授業を行うことで、多くを読んで書く授業が可能になるという提案である。TAの雇用をどうするかなどの課題は残るが、それぞれの授業を複数回開くことと、講義とディスカッションのクラスを組み合わせるという提案は傾聴に値する。

(中略)

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