苅谷剛彦 オックスフォードからの提唱 教育デジタル化の落とし穴

苅谷剛彦(オックスフォード大学教授)

教育のデジタル化に潜む落とし穴

 おそらくコロナ禍を経験したことで、日本の教育のデジタル化はさらに加速するだろう。文部科学省と経済産業省がタッグを組んで進める諸政策が、それを強力にバックアップしているからである。

 とりわけ、義務教育段階では、一人一台の端末環境の実現をめざすGIGAスクール構想が前倒しで実施された。さらには、高校教育まで含め、ICTや AIなどの「デジタル技術を駆使した革新的な教育技法」を提供する民間のEdTech企業との連携で、学習の「個別最適化」を進める経産省の「未来の教室」ビジョン政策も進められている。日本再生を図るSociety5・0政策のもと、政府をあげて邁進する教育のデジタル化である。

 そこでの重要なキーワードは「個別最適な学び」であり、その実現にICTやAIの利用拡大、それを後押しする民間企業との連携が見込まれている。国際的に見た日本のデジタル化の遅れを挽回する好機として、コロナ禍は利用されている。

 だが、そこに問題はないのか。一人一台の端末利用を前提に進む学習の個別最適化は、一見するとそれぞれの児童生徒のニーズに見合った教育内容を提供することで、一人ひとりに最適化された学習機会を与えるような印象がある。あるいはそう期待されてもいる。しかし、それでなくても多忙を極め、教材作成などICT利用のより高度なスキルを持たない教員が多数を占める現状を前提とすれば、教育のデジタル化は学習のブラックボックス化を進めることになるだろう。ICT技術に長けたEdTech企業との連携や、ビッグデータを所有する民間の教育産業の提供するコンテンツが、「個別最適な学び」を推進していくことになるからだ。さらには、個別最適化が学習の失敗を個人に帰責することで不平等の拡大も懸念されるが(本誌一月号の多喜弘文「ICT導入で格差拡大 日本の学校がアメリカ化する日」参照)、ここで論じたいのは、このブラックボックス化の問題である。

 大学入試の合格をゴールに学習の個別最適化が進めば、最適化の意味は、いかにそのゴールに効率的に、しかも個々の児童生徒の興味関心や学習レベルに適い、それゆえ動機付けを強める形でコンテンツが提供されることに帰着するだろう。

「一人ひとりのニーズに応じた学習の最適化」と言っても、あるいは「蓄積されたビッグデータの利用」と言っても、端末の「向こう側」は、教師にとっても学習者にとってもブラックボックスであり続ける。到達すべきゴールへの道筋の多様性や個別性が提供されたとしても、その大枠自体は、「向こう側」であらかじめプログラムされた枠組み(アルゴリズム?)に規定される。

 その意味で、伝達され、理解を促す知識の所与性から逃れることは難しい。「個別最適な学び」は個人に最適化した学びの機会を提供すると言うが、その最適化が全体としてめざす方向が問われるのである。そこに政治的あるいは経済的な利害の絡んだ力が介入すれば、伝達され、理解を促す知識の所与性が疑われることなく、その内容が孕む価値や規範や前提も無批判に伝達される。社会学の用語を用いれば、「個別最適な学び」の「隠れたカリキュラム」(表面的には意図されていないが教育を通じて伝えられる価値や規範、疑われることのない「前提」)が問われるのである。

 あえて言えば、それは、一見学習の個別最適化が進むようで、実際にはブラックボックスの中で教育の画一化が進行する、しかもそれが外部には見えない、という事態の出現である。その先に、オーウェリアン(ジョージ・オーウェルのSF作品『1984』で描かれたような監視社会)的なディストピアを思い描いてしまうのは、私の杞憂だろうか。ブラックボックスへの依存症が高じることの懸念でもある。

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