東大・大人気「ジェンダー論」教授、「森発言のどこが悪い」派に伝えたいこと

瀬地山角(東京大学大学院教授)
 森喜朗東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会(以下、組織委)会長の「女性蔑視発言」と辞任、そして後任会長人事は、オリパラ開催の可否論議とあいまって大きな関心を集めた。
 森発言への抗議は「#わきまえない女」などSNS上で展開され、男性の間にも広がり、聖火リレーランナーの辞退者も現れた。
 ところが、オリパラのボランティアの辞退者が続く動きを受けて二階俊博自民党幹事長は「瞬間的(なこと)」「新たに募集する」と発言。また、経団連の中西宏明会長は森発言を「日本社会の本音」と述べた。森氏のみならず二階氏や中西氏も「みんな同じ」と指摘するのは、ジェンダー論が専門の瀬地山角教授だ。「オジサンたちが自らの抑圧性に気づいておらず、女性や若い人の力を奪う」という瀬地山氏の東京大学の講義は五〇〇人の履修者を集め、立ち見が出るほど人気だ。コロナ禍対応でオンライン講義だった今年度は、八〇〇人を集める勢いだという。
 男女を問わず世代間ギャップが著しく思われる今回の一件。そこから見えたものや、今後の課題を伺った。

そもそも女性をなぜ登用すべきか?

─「女性は競争心が強い」「女性がたくさん入っている会議は時間がかかる」「(組織委の女性役員七人に対して)わきまえている」といった森発言について、どのように受け止めましたか。発言内容を学問的に検証できますか。

 

 たとえば「競争心」をどう定義するかにもよりますし、「会議の時間がかかる」という命題を証明しようとしたら、まず何が母集団でどういうサンプルをとってどのように証明するかというのは難しい。

 しかし、女性の管理職を増やそうとして声をかけても、断る女性は多い。出世レースを気にするのは圧倒的に男性の方が多いはずです。その事実一つとっても、「女性は競争心が強い」というのは日本社会の常識に当てはまりません。「会議の時間がかかる」というのもデータをとったら絶対そうは出てこない。むしろ女性は会議で発言ができない/しない側に回っている。

 百歩譲って、女性の発言時間が男性に比べて長いという調査結果があったとしても、そのことが女性を黙らせる理由にはなりません。

 森発言は完全にステレオタイプに基づく性差別です。謝罪会見や辞任会見を聞いても、どこが問題なのかわかっていません。男性でも若い層なら、同僚だけでなく上司が女性という人も少なくない時代ですから、森発言にリアリティを感じられないのでは。普通の人権感覚があれば容認できない発言だったから、男性からも批判が巻き起こったのでしょう。

 いずれにせよ乱暴な決めつけだと多くの人たちが捉え、そこに「わきまえている」という差別用語が追い打ちをかけた。とりわけオリンピック憲章にもあるとおり、組織委には公共性があり、一企業とは意味が異なるということは指摘しなければなりません。

 

─オリンピック憲章が男女差別を禁じていることから、森発言は不適切だということですね。先生はオリパラの「IDEA for TOKYO」(ボランティアの「新しいおもてなし」を学生対象に募集したキャンペーン)のポスター表現について東京都に抗議しました。「『東京って最高!』って思わせる僕らのアイデアを!」の「僕ら」がジェンダーの観点から不適切だと(詳細は瀬地山氏の著書『炎上CMでよみとくジェンダー論』参照)。同じオリパラ絡みで再び問題が生じたわけですが、今回の組織委の対応をどのように評価しますか。

 

 オリンピック憲章第一章二─八にIOC(国際オリンピック委員会)は「男女平等の原則を実践するため、あらゆるレベルと組織において、スポーツにおける女性の地位向上を促進し支援する」とあり、森発言はそれに明確に違反したものです。ですから、批判する側は単に「不愉快」というだけでなく、オリンピックの精神に反するという論理に立てた。そこが自治体や公的な組織と、民間企業との違いです。国や自治体には日本国憲法の縛り、つまり性別も含めた「法の下の平等」を謳う憲法一四条を守る義務があります。今回、オリンピック憲章は憲法と同様の位置づけに当たるでしょう。

「IDEA for TOKYO」は「僕らのおもてなし」の「僕ら」という一言だけでポスターは回収されました。応募者に女性が含まれていることを無視しかねない表現だからです。森発言はその何万倍も深刻で、オリパラの公共性を考えると、一私企業のトップの言動とは重みが違うのです。

 

─森発言は女性の幹部登用をめぐるものでした。あえて「そもそも」をお尋ねしますが、なぜ女性を登用する必要があるのでしょうか。

  

 二つのアプローチがあります。一つはダイバーシティという観点。社会はさまざまなバックグラウンドの人々によって構成されており、それを組織委のような公的機関は尊重し、反映させなければいけません。

 もう一つは、「性差別をなくすと優秀な人がとれる」という人材登用上の合理性にもとづくアプローチです。たとえば米国のバイデン新政権は、社会の多様性を閣僚の中に反映させました。運輸長官に登用されたブティジェッジ氏が三十代男性で同性愛者であるように、差別をやめたら優秀な人材を適切なポジションに配置できるのです。

 これについては有名な実験があります。オーケストラの団員をオーディションで選ぶ際、スクリーンをかけて性別がわからないようにしたら女性の採用が増えたのです。それは性別が「ノイズ(不必要な判断材料)」になっていることの証明であり、ノイズを取り払ったら優秀な人がとれるということになります。

 

─そこで思い出されるのは、東京医科大学の女子受験生に対する入試差別問題です。原因として、女性は出産・育児で離職することがある、あるいは逆に男性医師ならば転勤など医局の意向に従わせやすい、といった弁解の声が聞こえてきましたが。

 

 男女を問わず、子育てができないような働き方をしている職場がおかしいのです。そんな職場ばかりだったら、日本社会は再生産できません。会社は持っても社会が持たない。働く人の背後には、子どもや要介護老人が必ずいます。この前提を直視しないと、子育てのできない職場、子育てのできない社会ができあがるのです。

 なおかつ日本の労働生産性はOECD加盟国の中でもかなり低い。それは時間あたりの生産性を犠牲にして、労働投入量で帳尻を合わせているからです。これに対して、女性を登用した職場は、生産性が高いと言われています。端的に、だらだら残業するような職場ではなくなるからです。

 女性にきちんと成長する機会を与え、正当な評価さえすれば、子持ちの女性管理職が増えるはずです。その女性が産休や育休で職場を抜けるのは、全体のキャリアから見ればごく短期間ですから。育児期に時間をとられるのは男女とも変わりません。それに対して「女性は中途退職する」と勘違いする職場があるとすれば、やめざるをえないような環境を作っているほうが悪いのです。

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