渡辺健一郎 教育思想としてのファシリテーション 穏当で革新的な共同体のために

渡辺健一郎(俳優)
写真提供:photo AC
 注目を集めるファシリテーションについて、第65回群像新人評論賞受賞を受賞した渡辺健一郎さんが、教育の視点から考えます。
(『中央公論』2022年7月号より抜粋)

 ここ数年で、ファシリテーション(facilitation)という言葉をよく耳にするようになった。直訳すれば「促進すること」である。この語は、より良きリーダー像を大きく変容させた。指揮系統をはっきりさせ、情報の伝達を適切に行い、集団に一糸乱れぬ統率をもたらすのが伝統的な指導者だとすれば、特権的な力を持たず、集団の推進力をただ「促す人」がファシリテーターである。

 ファシリテーションの起源は諸説あるが、アメリカの精神医学の現場で20世紀中頃から盛んに謳われるようになったとされている。現在では企業の会議や芸術創作、町おこしの会合など様々な場面で見られるが、本稿で主題にしたいのは教育におけるファシリテーションである。

 2017年に改訂された学習指導要領には「アクティブ・ラーニング」が導入された。「主体的・対話的」な学びを重視する教育方針である。ここでは、板書をノートに書き写すような受動的な態度ではなく、生徒たち自身が互いに協働して問いを設定・解決していくといった能動的な態度の醸成が期待されている。アクティブ・ラーニング式の授業で、教師はもはや「教えない」。教師は知識を伝達するのではなく、生徒たちの学びを促進するファシリテーターの役割を担うのである。

 ファシリテーションは現代社会にだいぶ浸透してきている。書店の教育関連の棚を見れば、このカタカナ語をタイトルに含んだ書籍が極めて多いことに気づくだろう。具体的な方法論はそれらが詳細に示してくれているので、本稿では思想史的な背景を深掘りしてみる。


 教師であるにもかかわらず「教えない」という発想を奇異に思う人は少なくないはずだ。しかしファシリテーションが必要とされるようになったのには大きな理由がある。まずはそれを概観しよう。ただしそこには落とし穴も存在するため、最後に批判的な検討も加えることにする。

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