渡辺健一郎 教育思想としてのファシリテーション 穏当で革新的な共同体のために

渡辺健一郎(俳優)

現代の教育をめぐる諸問題

 小・中学生を相手に教壇に立ったことがある人の大半は「なんで勉強する必要があるんですか?」といった素朴な質問に直面した経験を持つはずだ。これを、まだ社会を分かっていない、未熟な存在による無駄な問いと捉えてはならない。教師たちは毎年様々な生徒から何度も同じような問いを耳にするので「就職のためには云々」、「あなたが将来、何に興味を持つかは分からないから云々」と定型の回答を用意している人も多いだろう。しかしこの問いには真正面から向き合わねばならない。

 なぜ当の科目を学ぶべきなのか? 日々、一分一秒変わりゆく世界のなかで、教育すべき内容がほとんど変わっていない、それが本当に正しいあり方だと言えるだろうか? 「社会を分かっていない」のは、生徒ではなく自分の方かもしれないのだ。少なくともその疑念の余地を確保しておく必要がある。

 現代では、教師が生徒よりも知的に優れているという前提は崩壊している。近代のもっとも偉大な哲学者の一人であるカントは「人間は教育によってはじめて人間になることができます」と述べた(「教育学講義」伊勢田耀子訳)。恐らくいまなお、多くの人がこの考え方に同調するだろう。しかし一方で、現代の哲学は「人間」にどれだけの信頼を置けるのか、という懐疑を思考の出発点としている。教育によって充分に「人間」たりえているはずの者たちが、どうして凄惨な事故や非人道的な戦争を起こしてしまうのだろうか。

 教育によって理性を獲得すれば、人間は自然の脅威を克服できるし、巨大な力を持つ科学技術を充分にコントロールできる――この考え方自体が根本から誤っていることは現代の学問的な常識とさえなっている。

 人間は自らの力を過信してしまう傾向にある。例えば認知心理学は、人間の知覚や認識には常に無数のバイアスがかかっていることを伝えている。歳を重ねれば重ねるほど偏りは強くなり、次第に「頭が固くなっていく」のは経験的にも理解されるはずだ。大人=人間が正しいとはもはや言えないのである。

 この点は、いま機能している社会がすでに間違っているかもしれないという疑義にも結びつけられねばならない。多くの場合、学校教育は、子どもを既存の社会に適合させるための制度であると理解されている。しかし、バイアスまみれの人間たちの作り上げている既存の社会が、正しいあり方をしているとどうして言えるだろうか。

 人間は間違う、社会は間違いをはらんでいる――当たり前に響くかもしれないが、これは決して他人事ではない。人間社会における過失を「人間になりきっていない者たちの愚行」と一蹴はできない。自分たちを人間という種の例外だと誤認してはならないのだ。

 実はこのようなことは、有史以来常に言われてきた。哲学史を一瞥すれば、紀元前からプラトンが現代とまったく同じ問題に悩んでいたのが見て取れる。例えば彼は、立派に見えるリーダーに騙され妄信し、民衆が暴走してしまう事態に強く警鐘を鳴らしていた。これを見ても、人間はほとんど変わっていないことが分かる。今後の人間の進歩に全幅の信頼を置き、完璧な人間が出来るはずだというパースペクティブを保持するのはいささか楽観がすぎるだろう。ただしプラトンは、もっとも間違わない存在である哲学者こそが統治者たるべきだと説いていた。哲学者は人間の「例外」であり、王として、教育者として、人々を正しく導かねばならないとした。しかし2400年を経て、現代哲学は「哲学者すら正しくはない」という正しさを獲得するに至ったのだ。

 人間は誤り続ける。そして、それは全面的に回避できない。いくら強調しても強調しすぎることはないだろう。ただ、だからといってニヒリズムに陥るわけにはいかない。むしろ自らの過ちに目を向けられるのが、人間の優れた点であるとも言える。正しさを担保できない者たちに、どのような教育が可能なのかと真剣に考えねばならないのだ。

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