渡辺健一郎 教育思想としてのファシリテーション 穏当で革新的な共同体のために

渡辺健一郎(俳優)

新たな正しさのための環境整備

 日本の学校教育におけるファシリテーション実践はまだ黎明期にあり、確固たる具体的な手法が確立されているわけではない。また臨機応変さも必要なため、「確立」できる類いのものではないとも言える。ただし、諸実践に通底しているのは、環境の整備に試行錯誤をしている点だ。

 例えば、教師が教壇に立ち、生徒たちが正対するという机の配置では、権威=正しさが教壇に集中してしまう。そのため、グループごとに机をまとめたり、大きな一つの円にしたりして、教師を中心とせず進んでいく授業が構築されねばならない。

 ただ、席を並べ替えたところで、授業中に人前で間違った発言をすることを恐れ、なるべく目立たないようにふるまう生徒も少なくない。そのため採用されているのが、「yes, and」というルールである。これは演出家、キース・ジョンストンに端を発する、インプロ(即興)という舞台表現形態で培われた方法論である。ファシリテーションの技術はインプロの方法論と相性がよく、それを積極的に取り入れて発展してきた歴史がある。

「yes, and」とは、相手の言葉をまず受け入れて、その上で何をするかを考えるというものだ。簡単な例で説明しよう。二人の俳優がインプロでシーンを作ろうとする際に、一方が「週末の渋谷は人が多いなぁ」と発言したとする。もう一人の俳優は、「週末の渋谷」という状況設定を受け入れた上で、可能な演技をせねばならない。「それはさておき今年は玉ねぎが高いねぇ」などと応答してしまっては、意味不明だし面白くならない。渋谷で玉ねぎの話をすることが全くないとは言えないが、週末の渋谷だからこその応答をした方がシーンとしての強度は高まる。もちろん、実は二人はテレビで渋谷の様子を見ながら話している、といった状況設定にすることも可能ではあるだろうが。

 相手の発言を否定せず受け入れるこの方法論が重要なのは、受け入れてもらえるという安心感、とりあえず言ってみようという態度が醸成される点だ。裏返せば、否定への恐れが生じると、自発的な発言が躊躇(ためら)われてしまうのである。

 そしてまた相手の発言を受け入れることは、創造性の喚起に一役買っている。芸術活動は、作者本人の純然たるオリジナリティと結びつけて考えられがちだが、必ず作者以外の何物かが表現のトリガーになっているのであり、当人の意図によってのみ完結する表現はありえない(森田亜紀『芸術の中動態』)。

 会社の企画会議などでも、最初は多くの人から様々な意見が出た方が良いはずだ。そのなかから思いもよらなかったアイデアが見出されることもある。「yes, and」は、独りよがりにならない協働的創造の場であり、多くのファシリテーターが採用している「環境」なのである。

 このように、ファシリテーターとしての教師は物の配置や心の環境を整え、自由な発言を促し、主体性と協働性を担保しようとする。環境さえ整ってしまえば、後は基本的に生徒たちに任せる。対話が停滞したり、思考が行き詰まったりしたときにのみ、何らかの助け舟を出し、生徒たちが自ら漕ぎ出すのをひたすら待つのである。このとき肝要なのは、助け舟=ヒントではないことだ。正解ありきのヒントは、邪魔にさえなる。ファシリテーターがなすべきは、どうしたら生徒たちの思考が駆動するかと苦心することにあるのだ。

 さて「教師なのに教えない」というこのアクロバティックな教育手法は、社会構成主義を根拠としている。社会構成主義者としては、心理学者のレフ・ヴィゴツキーや社会学者のピーター・バーガーなどが挙げられる。彼らの主張に差異はあれど、真理、すなわち何らかの正しさがまず世界に存在するのではなく、それは共同体が構成したものだと考える点で一致している。

 社会構成主義によれば、正しさはその共同体内で正しいとされているものにすぎない。そしてその共同体に新たな参加者=子どもがいる場合、正しさは更新されてしかるべきである。無論、完全に子どもの好きなようにさせておけば良いということではない。しかし10年もすればメディア技術の発展をはじめ様々な社会状況が変わり、学ぶべきものも変わるだろう。このことは、子どもの方が肌で感じているのではないか。

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渡辺健一郎(俳優)
〔わたなべけんいちろう〕
1987年神奈川県出身。早稲田大学大学院文学研究科表象・メディア論コース修了。「演劇教育の時代」で第65回群像新人評論賞受賞。初の単著『自由が上演される』が8月に刊行予定。
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