大屋雄裕 新型コロナによって生じた個人の自由の制限について考える

大屋雄裕(慶應義塾大学教授)

「お願い」と同調圧力で自由を制限した日本

 法規制と個人の自由のバランスをどう取るかは難しい問題です。新型コロナに対して、欧米諸国や中国は、個人の自由の制限は法によってなされなければいけないと考えました。単純化して言うと、個人の自由を重要視する人が多いアメリカでは、個人の自由を制限された人々の不満が爆発しました。中国では、社会のためには個人の自由はないと、強制的に人々を隔離しました。この両極端の中間のどこでバランスを取ろうか、と考えているのがヨーロッパ諸国です。当初は、中国モデルが成功した一方で、アメリカは失敗したと言われましたが、オミクロン株の出現以降、中国でも感染者が増え、いつロックダウン(都市封鎖)が終わるのかわからなくなりました。

 こうした中にあって、日本は「お願い」と同調圧力で個人の自由を制限するという特殊な方法を取りました。法的強制力が弱くてロックダウンもしない。マスク着用もお願いであって義務ではないため、感染拡大は避けられないと思われていましたが、結果的に、特に初期は、感染者数や死者数で世界でも優等生でした。

 もちろん、新型コロナの感染防止策について、今の時点では何が効果的だったのか断言することはできません。ただ、相互配慮で社会を運営していく日本の良さと悪さが、新型コロナの対応においても表れていたと言えるでしょう。

 法規制で自由を制限するのは、手間もコストもかかります。公権力の行使なので反発する人も出てくるし、行政訴訟でその妥当性が争われることもあります。

 たとえば、オーストラリアでロックダウンをした時には、警察官が町中をパトロールし、外出した人を捕まえて行政罰金を科しました。人手が足りないので軍隊を動員して見張るようにもなりました。これではまるで戒厳令下のような状態です。

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