片岡妙晶 1995年生まれの女性僧侶が語る、今に生きる親鸞の教え

片岡妙晶(真宗興正派慈泉寺僧侶)

なぜ人は正しさを押しつけるのか

──どのような教えに共感しますか。


 私が違和感を強く感じていたのは、人はなぜ争うのか、自分の正しさを押しつけようとするのか、ということでした。人それぞれ別の考えを持っていても、議論を交わせば妥協点が見つかり、争いにならないのではないか。けれども多くの場合、どちらか一方、強いほうが自分の意見を押しつけてしまいます。私自身これまで弱い立場に立たされることが多く、私のほうが間違っているということでその場を乗り切ってきました。

 そもそも人間は誰もが間違っていて、正解を持たない存在です。唯一正しいのは仏様だけですから、人間同士の争いには意味がありませんし、そのなかから正義を見出そうとするから角が立つのです。

 では、なぜ人によって意見が異なるのか。それは人間が心を持っているから。例えば私は猫が好きですが、外を歩き回って汚いから嫌いだ、という人もいますよね。互いの意見をぶつけると、私は猫がかわいいのに、この人は攻撃してくる、嫌がらせをしているという気持ちになってしまう。けれども、ただ受け取り方が違うだけ、つまり人によって心が違うだけだと知っていれば、少し距離を置いてみることもできる。

 このように、心というものがあって人それぞれ違うのですよ、と気づきを得るのが、仏様の信心をいただくということです。心をなくすわけではないので、争いがなくなるわけではありませんが、信心を得て聞く耳を持つようになれば仲直りもできる。心の違う者同士が生きていくには、聞くことが大切なのです。

 これを親鸞聖人の言葉で「聞即信(もんそくしん)」と言います。意見が対立したときに、自分が正しいと主張するのではなくて、まず相手の話を聞く......難しいことかもしれませんが、頭の片隅に置いていざというときに実践できたなら、世の中はもっと生きやすくなるのではないでしょうか。


──ふだん、法話でもこのように説いているのですね。


 私も仏教学院で学んだときに、先生方が法話で伝えてくださったのです。知識や情報として聞くのではなかなか身につかないですが、先生方は布教使としても活躍していて、気持ちを込めた味わいとでも言えばよいでしょうか、先生方の実感とともに伝わってきました。

「聞即信」は真宗の根本中の根本と言える教えですから、さまざまな説き方ができます。語り手が替われば伝わる相手も替わり、受け取り方や、それによって救われる苦しみも違うはずです。だからこそ親鸞聖人は、教えを広めることに専門的に従事する布教使を立てたのだと思います。今でこそ布教使は資格になっていますが、親鸞聖人が真宗を開いた当初は、僧侶であれば布教ができて当たり前とされていました。真宗でも大谷派は今もそういうスタイルです。

 それではなぜ「聞即信」が必要なのか。人はひとりではなく、みなで生きていく存在だからです。真宗では、一人が必死に修行して悟りを開いてもあまり意味がありません。みなが教えを聞いて、聞く耳を持ち、みなで浄土に行きましょう、というものです。そこで布教を大切にし、「布教使」という字が当てられました。「師は仏であって、僧侶は法を伝えるお使いにすぎない」という親鸞聖人の想いが込められているからです。これは真宗特有の表記ですね。


──修行で悟りを開くことをめざすわけではないのですね。


 例えば、親鸞聖人以前の密教系の真言宗は、修行によって煩悩をなくすことで救われようと考えます。けれども親鸞聖人にとって、煩悩とは心と等しいもの。修行によって煩悩を減らすことはできるかもしれませんが、煩悩や欲をすべてなくしてしまったら、それは「私」なのか。何を見ても楽しくない、何を食べてもおいしく感じられない、そういう人生は幸せとは言えないでしょう。そうであれば、煩悩を抱えたまま生きていく道を考えよう。真宗はそのようにして開かれた教えです。とても現実的ですし、人間について「よい諦観」にあふれています。

 親鸞聖人は、人間というものを本当によく知っていた人だと思います。例えば、当時厳しく禁じられた「肉食妻帯(にくじきさいたい)」についても、実は多くの僧侶が裏で破っていたのですね(笑)。親鸞聖人はそうした僧たちを批判するのではなく、なぜ破ってしまうのだろう、そもそもなぜ禁忌とされているのだろう、とひたすら考えつづける。聖人君子ではない一人の人間として問題に向き合った上で、肉を食べ、結婚したのです。



(続きは『中央公論』2023年9月号で)

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片岡妙晶(真宗興正派慈泉寺僧侶)
〔かたおかみょうしょう〕
1995年香川県生まれ。中央仏教学院卒業。布教使、教誨師。著書に絵本『しょうまさん』がある。
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