探検家、霊長類学者に会いに行く
「冒険」とは何か?
山極角幡さんは『新・冒険論』で、「冒険とはシステムを脱して未知なる混沌の世界に行くことだ。しかし、現代はそのシステムを抜け出すのが難しい」と書いています。今、現代人が抱いている閉塞感は、システムから抜け出せないことに由来しているのだと、私も思います。
地球にはこれまで未知の世界があり、新しいことが次々に出てくるという期待感に溢れていました。でも実は地球という環境は閉じていて、その環境が悪化していく。我々はその劣化していくシステムから逃れられないのです。それが閉塞感になっているのだと思います。
しかし、例えば私が研究対象にしているゴリラの世界に入り込むことは、日常のシステムから抜け出す方法の一つです。ただし、いくら私が頑張ってもゴリラが認めてくれなければゴリラと人間の境界を突破できないし、向こうの世界に辿り着くまでには何年も掛かります。
そうやって向こう側に行ってみると、今度は人間が変な生き物に見えてきます。手が短いし足が長い。一方のゴリラは頭がでかくて上半身に埋まりこんでいる。そして足は短く、腕が長い。この長い腕で自分を支えることによって安定した格好になっており、泰然自若とした雰囲気を醸し出しているのです。
それに比べて、人間はなんでこんなにあちこちに目配りをし、首が据わっていないのか。短い手をちょこちょこ動かして不格好で、人間の身体に関する信頼感が揺らいでくる。それはとても面白い体験でした。
角幡僕の考える冒険は、今僕らが住んでいるシステムの枠組みの外側に飛び出すことです。
世界で初めてロケットで地球を飛び出したガガーリンは「地球は青かった」と言いました。そんなシンプルなことも飛び出してみないとわからない。同じように、システムの外側に飛び出してみることによって、内側にいる僕らの思考や行動の枠組みの限界のようなもの、境界線が見えるような気がします。そういった意味で、僕は冒険家には批評性が重要だと思っています。他の動物の世界に入りこむのってすごく面白そうです。ゴリラの世界に入りこむことで初めて見える人間の世界があるわけだから。
山極私は、冒険の定義の一つに「帰ってくる」ことがあると思います。冒険者は帰ってきて、自分の体験を常識のシステムの中にいる人と分かち合う。そこに意味が生まれる。もし、向こうの世界に行ったまま消えてしまったら、それは死ぬこととほとんど変わりません。常識の世界にいる人間には思いもつかない体験をして、その体験を何らかの形で還元することで、初めて冒険者になるのだろうと思います。
私は、人間と動物の大きな違いも、境界を越えて戻ってくることだと思います。動物は種分化して新しい種を生み出してきましたが、それは移動することで地理的な隔離が生じ、もとの祖先種と交雑をしなくなるからです。一方の人間は、境界を越えてもまた戻ってくるので、もとの種と交雑します。だから新しい種ができない。これは人間だけに備わった特別な能力です。そもそもゴリラやチンパンジーは、新しい土地に行くことを好みません。もし移動して数日間群れから離れてしまうと、元の集団にはもう戻れない。別離は死んだことと一緒。毎日身体を合わせて、お互いを確認し合っていないと同じ仲間と感じられないのです。人間に最も近い類人猿でさえ、アフリカの熱帯林から出られませんでした。
ところが、更新世に生きていたヒト科の一種であるホモ・エレクトスは、一八〇万年前にアフリカ大陸を出ました。地域的変異はありますが、同じ種をアフリカにもアジアにもヨーロッパにも見つけることができます。現代の人間であるホモ・サピエンスもヨーロッパに進出し、アジアや新大陸に渡ったのです。