ゲンロン社長 上田洋子 インタビュー(後編) 「解散の選択肢は『絶対にありえない』とずっと言っていました」
――ここからはゲンロン入社後のお話を伺えればと思います。雑誌や書籍編集のお仕事は入社後に初めて行った感じでしょうか。
演劇博物館で助手をしていた時に展示の図録を作ったくらいなので、ほとんど未経験に近いと思います。もともとゲンロンには編集者になろうと思って入ったわけではなく、東さんの仕事を何か手伝えたらというくらいでした。研究者として論文を書いたり、読んだりといった作業は行っており、書くことは好きなので軽い気持ちだった。ただ、実際にやってみるとわからないことだらけでした。専門用語もわからないし、紙の選び方や、デザイナーさんとの打ち合わせの仕方もわからない。だから、色々とご迷惑をおかけしたと思います。東さんや、数年前からゲンロンにいた徳久(倫康)くんの仕事ぶりを見て、現場で学んでいく感じでした。
――上田さんは2017年にゲンロンの取締役に就任されますが、翌18年には解散危機が生じます。アルバイトや社員の退社が相次ぎ、東さんの精神状態が悪化。ついにはゲンロン解散を宣言する事態となります。ここで、東さんに代わって、代表取締役に就任されたのが上田さんでした。センシティブなテーマですが、こちらのお話もお聞かせいただけるでしょうか。
この話はけっこうトラウマで、今でも思い出すと泣いてしまうんです。東さんは同僚、上司であるとともに友人でもあったので、当時、「もうしんどい」という不満はよく聞いていました。「でも、あなたが作った会社だしちゃんとやるべき」と私は言い続けていたのですが、常に「しんどい、しんどい」と言われるとだんだんこっちも疲れてきて......。
私はポジティブなタイプなので「愚痴を言っても始まらないじゃん」と説得するのですが、東さんは「いや、もう辞めるから」の一点張り。さらに、こっちは一緒にやってきたつもりなのに、「俺が一人でやっている」みたいなことも言われ、どうしてそんなことを言わなきゃならないんだろう......と。その言葉を聞いたときは、寂しかったです。経営の不安を東さんが一人で抱えていたということが、私には見えていなかったんですね。
「そんなに急に辞めると言うのはおかしい」と強く怒ったりもして、私のそういう振る舞いが、さらに精神的な負担になってしまった部分もあり、今となっては申し訳なかったなと思います。けれども当時は、「私はそれほど信用されていなかったんだ」と思っていました。
私は、解散の選択肢は「絶対にありえない」とずっと言っていました。ゲンロンは社会にとって必要な存在で、続けるべきだと思っていたからです。会社の存続案として、「出版社としてのゲンロンは解散、カフェだけを残す」という話もあったんですが、それもできれば避けたかった。出版とトークイベントの両方をやってこそ広く言葉が伝わるのだ、と。
そもそも私自身が王道を歩むようなタイプではなかったこともあって、流行に従ってみんなが見ているものを見て、みんなが読んでいるものを読むといった行動様式を避けて、何が面白いのか、何が正しいのか、自分の頭で考えたい人がたくさんいるはずだという確信があった。自分が若いころにこういう場所があればずいぶんと救われただろう、と常々思っていたこともあり、ゲンロンを潰す選択肢はあり得ませんでした。
大学院にさほど馴染めなかったこともあり、ゲンロンのような大学に限定されない知の形、テレビなども違うオルナタティブな議論の場所が日本にあることがすごく豊かなことだと実感していました。そもそも東さんの哲学や今までの発言から考えても、ここを潰したらおかしいじゃないか、とも思いました。解散危機の中で私が考えたのは、いかにゲンロンを存続させるか、その一点のみです。代表を引き受けるしかなければ、そうするしかないし、私では頼りないということであれば、誰か探すしかない。それだけです。
私が代表取締役になったことを、東さんは「引き受けてくれた」みたいに言ったり書いたりしていますが、「そんなの当たり前じゃん」と。あの騒動については、当時信頼関係をうまく築けていなかったことを、今でも悔しく思います。