武田一義(『ペリリュー ―楽園のゲルニカ―』)×中路啓太(『南洋のエレアル』)対談 「戦争という『ストーリー』の彼方を描く」

武田一義氏(漫画家)×中路啓太氏(小説家)
中路啓太氏(左)、武田一義氏(右)
 太平洋戦争末期のペリリュー島の戦いを描いた漫画『ペリリュー ―楽園のゲルニカ―』(全11巻)と同戦争中のパラオ・コロール島で出会ったパラオ人少年と日本人少年の交流を描いた小説『南洋のエレアル』。両作品の作者・武田一義さんと中路啓太さんが、お互いの作品について、そして戦争を描くことについて語り合った。
(『中央公論』2023年1月号より)

ペリリュー島での取材

武田 『南洋のエレアル』の冒頭は、パラオ人のシゲルが昭和の終わりになって生まれて初めて日本へやってくるところから始まりますね。実は、僕はそこを読んで、2018年にペリリュー島へ取材に行ったときに話を聞いたパラオ人のおばあさんのことを思い出し、泣いてしまいました。

「戦争で一番つらかったことはなんですか?」という僕の問いに、戦争中は20歳前後だったと思われるそのおばあさんは、「友達のタカハシさんが、戦争が終わったら日本に帰ってしまったことだ」と答えたのです。

 てっきり「食べ物がなくてつらかった」とか「空襲が怖かった」と答えるのかと思っていたら違いました。戦争が終わったらペリリュー島を一緒に復興していくつもりだった日本人の親友が日本に帰ってしまったことが一番つらかったと言うのです。

 考えもしなかった答えに僕は目が開かれる思いがしました。──いや、むしろ、自分の無知に頭をぶん殴られたような情けない気持ちと言ったほうがいいかもしれません。

『南洋のエレアル』のシゲルは、日本の統治下で少年時代を過ごし、宮口智也という日本人と親友になったのに、終戦で日本人はみな去ってしまい40年以上がたった。そのシゲルが智也を捜しに昭和63(1988)年の日本にやってきて、「ここには〝日本人〟がいない」という孤独感を感じるのは、それが彼にとってのアイデンティティの喪失だったからだと思います。そのシゲルの姿が、ペリリュー島で会ったおばあさんと重なって、ものすごく胸に迫ってきました。

 戦時下のパラオでのシゲルと智也の友情は、読んでいてとても眩しかったです。当時のパラオの情景描写も自然に体に入ってきました。僕はシゲルが大好きになって、シゲルが出てくるたびに「シゲルー!」って思いながら読みました。


中路 ありがとうございます。

 パラオには日本人が大好きな人がとても多く、高齢者はきれいな日本語をしゃべるし、電信柱を「デンキバシラ」、ブラジャーを「チチ(乳)バンド」と言うなど、若い人が使う言葉にも日本語がたくさん入っています。こういうことは、ともすると、日本が悪いことをした痕跡とされてしまいがちですが、多くの人が親日的だというのは、立派な日本人がいたという証左でもあると思います。

 僕は、あらゆる言説は「ストーリー」だと思っています。戦争はその最たるもので、ストーリーとストーリーの戦い、つまり嘘と嘘との戦いだと思います。例えば、今の日本では「大東亜戦争」という言葉を使ってはいけないことになっていて、だいたい「太平洋戦争」に置き換えられています。それはGHQに代表される勝者の側のストーリーを押しつけられたからとも言えるのではないでしょうか。つまり、〝太平洋戦争史観〟でしかあの戦争を捉えられないようになっている。

 もちろん、僕は、太平洋戦争史観ではなく大東亜戦争史観に立つべきだと思っているわけではありません。AとBのストーリーがあったときに、どちらのストーリーを取るかという問い自体がすでに「罠」に嵌まっている、真相があるとすれば、そうではなくて、むしろストーリーの彼方にあるのではないかと考えています。


武田 よくわかります。


中路 パラオの人たちは日本が大好きなのに、多くの日本人はパラオがどこにあるかも、かつて日本が統治していたことも、そこで戦争があったことも知りません。

 パラオを始めとする南洋に立派な日本人がいたことについて、みなさんに関心をもってもらいたいし、そこに今でも日本のことを思っている人たちがいることも知ってほしいという気持ちがあってこの小説を書きました。

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